編集支援:阿部匡宏
編集:
岩田忠利
NO.192
2014.9.01 掲載
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題字:
青山杉雨
先生
(書家。文化勲章受章者)
当代最高峰の匠は今 円鍔勝三
さん
(最寄駅・新丸子)
沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和63年5月20日発行本誌No.42 号名「杉」
企画・編集:岩田忠利 取材・文 :前川正男
(都立大学)
“池上本門寺の仁王像”に魅せられて
私は週に一度は、環境が都内随一といわれる池上本門寺へ参拝に行く。加藤清正公が献納した
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段の石段を登ると、正門に仁王門がある。その中の一対の仁王様は、ほかのお寺の仁王様と違って、いまにも動きだしそうに見える。筋肉隆々、躍動感に溢れたものである。
その向かいに最近、北村西望先生の日蓮上人像がおかれた。銀色に輝くアルミの大像で、右手に「立正安国論」の巻物を高く掲げ、獅子吼している。
この両像の対決で、池上山上に一陣の熱気が漲ってきた。
この仁王像は、日本彫刻界の第一人者で芸術院会員・円鍔勝三先生の作と聞いた。しかもご当人が東横線の新丸子・武蔵小杉駅間の住宅地にお住まいということも聞き、さっそくお訪ねした。吹き抜けの高い天井のアトリエには様々な像が林立していた。応接間に現れた先生は、小柄ではあったが、筋骨たくましい
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歳の青年であった。
「本門寺の仁王さんは、私の作品の一つで、先日亡くなられた池上第
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世日威貫主さんも、その作品を制作中には何度もここへ見えられました。毎日仏様を拝んでおられる貫主さんより私が長生きしようとは……」
と絶句された。
「仁王さんの搬入のときは、傷がつかないように晒布(さらし)をお体に巻きましたが、これはあとで適当な長さに切って、信者さんたちの岩田帯になったそうです」
円鍔先生作、池上本門寺の「仁王像」
先生はプロレスのフアンだそうで、この仁王様のモデルはアントニオ猪木という
広島生まれの天賦の才をいかして
先生は、明治
38
年広島県御調町という山の麓で生まれた。小学校6
年生のときだった。学校の展覧会に『気候温和地味肥沃』という書を右書きと左書きの2
点を出品したところ、日頃使わない左手で書いた作品が会場に張り出され、担任の先生から「この書は末永く学校に残しておく」と告げられた。
彫刻を始められたのは
13
歳の頃。すでにハンコ屋さん並みに彫る印鑑の数数に、近所の人たちは、
「きっと勝三ちゃんは将来ハンコ屋さんになるだろう」
と噂していたほど。
少年時代からのこうしたズバ抜けた器用さは、天賦の才能だったようだ。
それにしても円鍔(えんつば)″という苗字はたいへん珍しい。
「どうも円鍔という姓は、うちの一族だけらしいですよ。私の生家のそばを流れる川の一部に「えんつば」という流れのゆるやかな渕があって、『おい、えんつばに泳ぎに行こうよ』と、その地名が苗字になったのかもしれん。日本中の電話帳にも、円鍔というのは4、5件しかないらしい。円鍔という一族は、いかに繁殖力がなかったかですよねえ」
と話される親しみのある笑顔、如才ない人柄に接していると、わが国を代表する偉大な彫刻家とは思えない。
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歳のとき帝展に『星陽一の名で入選して以来、
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歳の今日まで数えきれぬほどの作品をこの世に産み出した。それも立ちどころに心の琴線に触れる円鍔作品″を。
広島県出身のため原爆で身近な人を大勢亡くしておられるので「戦争」と「平和」というテーマの作品が多い。広島市の平和公園に平和記念ポスト『平和と友情』、広島平和聖堂欄間彫刻、平和公園の「若葉』・『平和祈念像』・「動員学徒慰霊碑』、新幹線広島駅前の『朝』、沖縄摩文仁丘の『広島の塔』など、慰霊と平和に対する凄まじい執念が感じられる。
山陽新幹線・広島駅前の作品『朝』
円鍔先生は昭和59年(1989年)広島県名誉県民になられました
「ガラスのうさぎ」と戦争
神奈川県二宮町の駅頭に『ガラスのうさぎ』というガラスの兎を抱いて立つ、高さ
1
・
6
メートルの少女像がある。これも先生の作。
東京の主婦・高木敏子さんは、
12
歳の少女時代に悲しい戦争体験をもつ人。敏子さんは空襲で母と妹を失い、さらに昭和
20
年
4
月
3
日艦載機の機銃掃射によって、ガラス工場をやっていた父を二宮駅の待合室で失った。孤独となった少女は、工場の焼け跡で父の作った
1
個のガラスの兎をみつけ、それを家族の形見として家に持ち帰った――。
この悲話は『黒いカバン』という小説となり、同人誌『たきおん』3
号に載ったのである。たまたま、これを印刷したのが私の戦友で詩人の浅香進一氏であった。彼も中国での戦争で敵弾を胸に受けた人で、自分の戦記を書いた。私の本も彼に数冊刷ってもらったこともあった。
『黒いカバン』を読んだ或る出版社の社長さんが感激、『ガラスのうさぎ』と改題して出版したら、ベストセラーとなった。しかし、これを先生が二宮町の依頼で作られたことは、まったく知らなかった。
さらに、この「鬼人粋人伝」の第
l
回に登場した石亭グループの羽根田会長も、この日の機銃掃射を藤沢駅のそばで受け、隣にいた愛人とその腹中の愛児を失っている。
敵の弾が少しそれたら、「ガラスのうさぎ」も「石亭」も、この世に残らなかったことを思えば、運命とは不思議なものである。
東海道線二宮駅前のロータリーにある、右の先生の作品
「ガラスのうさぎ」を抱く12歳の少女、高木敏子さんの彫刻
紫式部像と伊勢神宮の神馬
先生は
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歳の今なお、小杉のアトリエで積極的に創作活動に励んでおられる。
先頃も、福井県武生市の「平安朝庭園」に金色に輝く『紫式部』像を制作された。そこは、源氏物語で不朽の名作をとどめる紫式部が多感な娘時代を父越前守とすごした地。式部像は、十二単衣(ひとえ)のすそを垂らし、小高い築山に立つ清楚な姿である。
また最近先生は、昭和
68
年秋の伊勢神宮遷宮式の神宝装束(神様の調度品)の馬
6
体の木彫を頼まれた。この神馬はヒノキ材で当代最高峰の匠が制作することになっているが、神の御料は作品にあらずとして作家の名前は刻まないという厳格なものである。
「神宝の馬はサラブレットやアラブではいけない。日本古来の馬なので、短足でいかにも安定性の良いところは、わが民族の体型そのもの。材質選びも大変でした。四方柾目、
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センチ角で
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メートルという木曽ヒノキをやっと見つけましたよ」
神官から示された側面図・仕様書に従い、まず粘土で馬を作り、これでよいというところで石膏にとり、それをモデルに木彫をはじめる。木彫りの馬が完成すると彩色、彫金、鎚金、螺鈿……とそれぞれの匠の手によって見事な飾り付けが行われるという。
憲法の番人、最高裁判所には、先生の作『正義』像がある。正義の剣を高く掲げ、左手には秤を待った女神の像である。裁判官や弁護士にとつて、女神の温顔はどんなにか、心休まるものであろうか。
お忙しい先生のこと、取材は
1
時間半で切りあげるとお約束したが、先生は終始笑顔で機関銃のように話され、時計を見たら延延
4
時間にも及んでいた。
帰りぎわ、玄関で見送っていただくご夫妻に私が、
「先生のお宅は、門が無い入口が3つもあって、最初戸惑いましてねえ」
と言うと、先生は即座に、
「うちはまだ、門も無い。それは、ほんもん(本物)じゃない証拠ですよ」
と言って大家は、呵々大笑された。
福井県武夫市の築山に立つ清楚な紫式部像
圓鍔勝三
(えんつば かつぞう)
先生の
横顔
明治
38
年広島県生まれ、
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歳。
13
歳で彫刻を始め、
17
歳から
5
年間修業し、上京後日本美術学校卒業。
昭和
41
年第
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回日展出展し日本芸術院賞。
43
年日本彫塑会委員長。
45
年日本芸術院会員。
46
年紫綬褒章。
48
年川崎市文化賞。
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年勲三等瑞宝章。
53
年多摩美術大学名誉教授。
57
年文化功労者。
63
年文化勲章受章。
59
年広島県名誉県民。
川崎市中原区小杉
2
丁目在住。
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