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編集支援:阿部匡宏 |
編集:岩田忠利 NO.191 2014.9.01 掲載 |
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題字:青山杉雨先生(書家。文化勲章受章者) |
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東京を空前の愉快な街に 加藤照雄さん
(最寄駅・代官山)
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沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和63年5月20日発行本誌No.42 号名「杉」
企画・編集:岩田忠利 取材・文 :前川正男 (都立大学)
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“ベンチ将棋”に群がる人々
ある初春の午後、富士銀行から出て、隣の宮下公園を見たら、小さな桜の木がそれでも満開の花を咲かせていた。
この公園の下の地中には渋谷川が流れ、下流の広尾の近くで私は生まれた。だから、その上流の宮下公園は懐かしい所だ。たくさんのベンチのうちの4台で縁台将棋をしている。黒山の人がのぞき込んでいる。そのうちの親分面の男が、ラジカセを盤の横に置いてムードを盛り上げている。一局終わったとき、その男が私に、
「ひとつ、いかがですか」
と、私の顔を見上げた。これが、加藤大人と私の最初の出会いであった。
棋力はかれの方が上だった。一局終わるとその席を他の人た譲って、かれは私を隣のペンチに誘った。話は、戦前、戦中から戦後と尽きることなく、日没も近くなった。と、私をこの近くの金王神社まで案内し、有名な“金王桜”のみごとな開花を見せてくれた。
それからは、渋谷へ出るたび宮下公園へ寄るのが私の大きな楽しみとなった。皆が使っているが盤も駒も、すべてかれの物であることを知った。厳冬のときも寒稽古と称し、厚着をしてカイロを抱えて熱戦を繰り返している。
「ここで年中やっていると、賭け将棋≠やりたい奴が、言葉巧みに寄ってきて誘うが、私は絶対に許しません。それでなくても、私服(刑事)があの手この手で賭け将棋の内偵をしているんです」
冬は酒の暖を借りて指す人もいるので、酔余のケンカもあるが、かれの一喝で沈静する。その貫禄は十分である。
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雨天を除く毎日、宮下公園のベンチで仲間と将棋を指している加藤照雄さん(左)
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上野の花見をする“元禄会”
3月のある日、1枚の紙を手渡された。きれいな騰写版3色刷りの「上野の花見」の案内状であった。はじめてかれが騰写版屋であることを知った。
内容は「4月10日夕、上野公園中央亭前の例の場所で仮装将棋大会を開催します。なお当日、俳句の短冊をご用意下さい」というものであった。
「毎年やっているのですが、関東一円から仮装のセミプロが大勢来ますし、短冊をぶら下げて将棋を3局くらいやってますと、外人が不思議そうに取り囲み、テレビ局も例年のことなので、必ず録画に来ます。今年いらっしゃいませんか」
当日は生憎の曇天、いまにも泣き出しそう。桜は満開、その下に各社の陣取り社員がシートを広げて大の字になって寝ている。その脇にはカラオケセットと酒、ビール、おつまみ類が高く積まれている。 加藤さんの地図を頼りにゆくと、ビニールシートの上に加藤さんが座っていた。頭上の樹や桜の間には紐が張られ、俳句の短冊も数枚、風に揺れている。
やがて加藤さんが主宰するもう一つの会、元禄会の仮装の面々が地元の東京・横須賀・大宮・千葉などからやってくる。武士あり、俳諧師あり、浪人あり、アラブ人やスペイン人の出で立ちでさっそうと登場。たちまち、人の輪に囲まれる。将棋盤が並ぶ頃には、宮下公園の将棋仲間が来て、すぐパチパチ始まる。黒山の人の中からは、飛び込みの強い奴が、どんどん参加して来る。満開の桜の下での“野外迷人戦”は刻一刻と白熱化。
その横では元禄合の仮装連のパフォーマンス――。アラブ姿でアラブの音楽を流してワイワイガヤガヤの最中、とうとう本物のアラブ人が通りかかって一緒になって踊り出す始末。一方、スペインハットをかぶってフラメンコの真似ごとをやっていると、またまたスペイン人のお通り。今度は闘牛が始まり、本物が「あんたが主役よ」と牛になり、剣士と大格闘。それはそれは、ハチャメチャの即興パフォーマンスにタダ見の見物人は抱腹絶倒……。
その最前列に陣取った親分加藤さんは、この情熱的演技をじっと見つめている。かれの持論「東京を空前の愉快な街にしよう」が、今まさにここで展開中、といった情景にいかにも満足そうである。
“宮下棋会”の面々には変人奇人が多いが、絶対に前歴や職業を訊かないという不文律みたいなものがあった。
が、私は加藤さんとはベンチで四方山話に花を咲かせた。かれは大東亜戦争中、日映≠ノいてニュース映画の編集をしていたらしい。だから応召も来なかったが、兄は海軍で戦死している。靖国神社にはよくお参りに行くらしく、参拝後、本好きのかれは神田の古書街回りをするのが楽しみだったという。
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人垣の中にかれの姿が見えず
11月3日は渋谷区の区民祭り。渋谷公会堂、NHKホール、代々木公園ではいろんな催しが行われる。その人出は、近年とくに物凄い。このとき加藤さんは、区の将棋祭りの企画に参加、前々から準備会議にも出席していた。
「3日の日には、また将棋のテントに来てください」
と、かれに何回も念を押された。
当日は例の愉快な連中の顔が見られると、私は朝から妙に浮かれていた。お昼頃、将棋祭りの会場へ。
大勢の人たちが盤を囲み、これを取り巻く人垣も多かった。しかし加藤さんの顔が見えない。昼飯でも食べに行ったんだろうと思って熱戦を観戦していたら、宮下公園の仲間がそっと寄ってきて耳元で、
「加藤さんが数日前に亡くなったそうです……」
「えッ!」
私は何回も訊き直した。
「脳出血だそうです」
私は、足元が崩れてゆくような気がして、すぐ近くの売店で日本酒をひっかけた。全然酔わない。もう一杯飲んで、夢遊病者のような足取りで公園通りを渋谷駅の方へ下って行った。
今なお仲間の心の中に生きる
その後の宮下公園は、私にとっては淋しい所となってしまった。その冬は公園に一歩も足を踏み入れなかった。春のある日、久しぶりに行ってみたら、仲間がみな「先生、淋しいでしょう」と私を慰めてくれた。加藤さんが盤を持ってこないので棋盤数が少なく、見物人の方が多かった。
知り合いの社長とベンチで話し込む。と社長が、
「淋しくなりましたなあ。この公衆電話も水飲み場も常夜灯も、みな加藤氏が渋谷区と交渉して設置されたものでした……」
「そうですなあ。だが、あんなに将棋が好きな加藤さんだから、きっとやって来ますよ」
と私がいうと、社長は、
「えッ? だって亡くなったんでしょう?」
と、まじめ一方の社長は、まじまじと私の顔をのぞきこんだ。
「もうすぐ彼は来ますよ。お盆にはきっと来ますよ。ただし脚は無いかもしれませんよ。頭と手さえあれば、将棋はできますもの……」
と私がいうと、社長は淋しく笑って、
「そうですね。きっとお盆の夕方、きっと彼氏は来ますよねえ」
と、大きな声を出した。社長の眼の中に夜露のように光るものを私は見た。
日が経つにつれ、暑さ寒さの季節の変わり目になると、急に加藤さんの話が盛んになる。かれは、いつまでもみんなの心の中に住みついているようだ。
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加藤照雄さんの横顔
大正11年、渋谷生まれで目黒区五本木育ち。油面小、鉄道学校を出て、朝日映画社の編集18年間従事。 海軍兵役除隊後、目黒区役所に勤めたが病気に。回復して加藤英文タイプを自営。明朗、世話好き。多趣味であったが、昭和61年10月30日脳溢血で急逝、享年64歳。
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