編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利     NO.190 2014.8.31 掲載 

     題字:青山杉雨先生(書家。文化勲章受章者)

 どの道でもパイオニア 
羽根田武夫さん


                               (最寄駅・学芸大学)


 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”

   掲載記事:昭和63年2月15日発行本誌No.41 号名「榧(かや)」
   
企画・編集:岩田忠利  取材・文 :前川正男 (都立大学) 


   東京本郷の菊富士ホテルの3男坊


 本郷の東大赤門の近くに菊富士ホテル≠ニいう4階建ての西洋館があった。下宿屋の多い本郷ではあったが、ここは下宿料が高いので、高級な人士が泊まっていた。

 当時東京で唯一のシステムが受けて、小説家・俳優・画家・映画監督などの有名人の客が多かった。
 正宗白鳥、張学良、宇野浩二、真山青果、尾崎士郎、宇野千代、大杉栄、直木三十五、広津和郎、竹久夢二、三木清、月形竜之介、谷崎潤一郎、伊藤大輔、宮本百合子、高田保、坂口安吾らが、2、3か月から5年、10年と長逗留していた。

 武夫は、このホテルの3男として明治41年に生まれる。


    女性を撮っては、当代随一の写真家

 小学校6年生のとき、同級生の鈴木花子という左官屋の娘に初恋した。雨天体操場で花子たちが秋の学芸会の練習をしているのを、高い窓によじ登り、ガラスにおでこを付けて覗きこんでいたときだった。ガラス戸がはずれ、一緒に転落。鼻に大怪我をした。あと15分遅れていたら死んだろう、と医者も驚くほどの出血で、鼻を5針縫った。

 関東大震災に遭ったのは中学3年生のときだ。武夫は、その惨状を愛用のライカで撮った。
 ところがこの写真が大ヒットして
3万組も売れ、手元に15千円が入った。菊富士ホテルが二つ新築できるほどの大金だ。

 中学生で大金持ちになった彼は、ロンジンの腕時計などをしていたために不良中学生に狙われて殴られ、みな盗られてしまう。

 そこで武夫は、ボクシングを夢中で習う。4年生のときには全校一のボスとなった。勢いに乗じてヤクザとも喧嘩して、ついに退校処分となる。

 今度は、プロ写真家が使うアンゴーカメラを買い、報知新聞社の嘱託カメラマンに変身した。
 昭和7
年には銀座の白牡丹ビルの3階に「ハネタ写真館」を開業する。
 そのとき、作家の広津和郎が中央公論社へ連れて行ってくれ、婦人公論のグラビア写真家に転進。有名人士や女優を撮りまくり、当時の大学卒の初任給が
65円の時代に彼の月収は1500円であった。

 売れっ子、青年写真家となった武夫は、当時銀座一流の竹田アパートに住んでいたが、銀座の女給3人と関係したため、ここを脱走し目黒の権の助坂に逃げた。
 そしてこの地で写真材料店「ツバメ堂」と「ハネダ写真館」を開いた。ショーウインドウに芸者の入浴中のヌード写真を出したので、東京中の評判になった。しかし、ヒゲの巡査の一喝ではずされてしまった。

 武夫はその悔しさに腹の虫がおさまらず、その写真に「東洋のビーナス」と題をつけて、パリの国際サロン写真展≠ヨ送ったのだった。それが、みごと日本人として初の入選、武夫はわが国一流写真家の道を歩む。



     昭和初期のスター・山路ふみ子

 原節子、山本富士子ら日本の女優のほとんどを撮影したほか、芸者、モデルなども入れると総勢5万人といわれる


    奇才と女運に恵まれ、ホテル王に

 やがて戦争が激化、武夫にも徴用がきた。藤沢の海軍電波兵器測定学校の写真技術の教官になったが、間もなく終戦――。

 目黒のツバメ堂に帰ってみると誰もいなかった。2、3日呆然としていたら、近所のホテルの女支配人がやってきた。この彼女の訪問が、彼のホテル業のスタートになるとは……。これも、武夫の女運の強さだ。

 彼女のホテルは、海軍の徴用が解かれて空っぽだから見に来てくれと誘われ、ベッドのある部屋でこのホテルの経営をすすめられる。そのうち二人は、横にあったベッドに重なり合っていた。それからは、このホテルを持ち主から借りて経営することとなった。もちろん彼女を支配人とし、昭和2012月「フジホテル」という名で進駐軍の米兵相手のラブホテル″としてオープン。これが、日本のラブホテル第1号、初日から行列ができるほど賑わった。

 これに勢いを得てツバメ堂も改築して「目黒スターホテル」として開業した。続いて昭和23年に渋谷・松涛に「ホテルニューフジ」を、24年代官山の西郷山に「ホテルハイツ」を、またその隣に「ハイツ別館」を建てたのだ。

 つぎに熱海の桜が丘に昭和36年未に「熱海石亭」を造って、熱海一の超高級ホテル″、熱海一高い料金で有名となる。どの部屋も石の庭園付き、しかもどのアングルから写真を撮っても見事な被写体となるように設計したのは、やはり写真家武夫。ここの奇岩名石3千個も、彼のアイデアで殆ど無料同然で集めたものである。

 昭和39年の東京オリンピック開催にあたり、東京ではオリンピック道路″建設で空前の道路拡幅工事のラッシュに沸いた。このとき、どの建設業者も頭を悩ませたのは、立ち退きの庭園の巨岩名石の捨て場。
 ここに着目した武夫は、いち早く空地を借りて石置き場のプールとし、トラックでどんどん運ばせた。この機を見るに敏、ここでも彼の奇才が発揮されたのである。

 昭和
39年目黒・青葉台の「ハイツ別館」を6階に建て直して「東京石亭」とし、41年には「湯河原石亭」をつくり、中に銀座風の高級クラブを配するなど、武夫のホテル経営は順風満帆であった。



   羽根田武夫さんの横顔

 明治41年、東京本郷の菊富士ホテルの3男として生まれる。幼児期からホテルに止宿する多くの文化人のアイドルとして育つ。京北中学、日大芸術科卒業後、カメラマンとして中央公論社入社。さらに写真館を自営。ラインライト撮影法を開発し一流写真で活躍。
 終戦後ホテル業に転業。米兵対象のホテルから割烹旅館石亭チェーンを展開。社長を長男に譲り、海ヘビの医学・薬学研究に邁進。
  最寄駅学芸大学在住。


   秦の始皇帝もシャッポをぬいだ(?)


  湯河原石亭のクラブの踊り子、18歳のリリーと関係したときのことだった。
 「パパったらダメね。パパはもうお齢(とし)だもんね」
 その方では満満たる自信を持っていただけに、武夫は大きな衝撃を受けた。

 そこで翌朝から不老長寿のクスリを自分でつくろうと決心し、ホテルの事業は息子たちに譲り、さっそく「財団法人羽根田天然物化学研究会」を設立、研究に没頭した。
 昔、喧嘩で第
5腰椎を欠損したとき、作家の広津和郎が連れて行ってくれた新宿の医者が打った皮下注射のことを思い出したからである。

 注射液は海へビからとった油≠セと医者は言っていた。長女や長男の大病のときも、このクスリのおかげで一命を取り止めた。武夫はこの世にこれほど効く妙薬はないと思っていた。

 研究の結果、猛毒のあるエラブ・ウナギという海ヘビのものが一番良いとわかったので、すぐ沖縄に飛び、石垣島で比喜という老人をみつけた。内地人には絶対売らぬというのに、お百度を踏み、やっと100グラム分けてもらった。2グラムで蒲焼500人前の精がつくという。

 その話を聞いたら、武夫は試してみたくなった。実際に2
グラム飲んだら卒倒してしまった。が、翌朝トイレに行ったら性器が30歳代に若返っていた。すぐ湯河原に直行し、リリーに見せたら、
 「まあ! 社長さん、どうしたの」と彼女は絶句した。

 この妙薬を分析してみるとリン酸皮質″が多く含まれていることが判明した。これは動物の賦括(若返り)に効くもので、非常に高価なものだという。
 とうとう武夫は、巨費は投じたものの、秦の始皇帝も手に入れられなかった秘薬を入手してしまったのである。

 この妙薬を常用する彼は、
80歳の今日でも青年のように意気軒昂である。あの海ヘビのエキスの医薬品化に成功し、これを基に薬品会社、診療所、レストランなどの新事業を輿こしては軌道に乗せ、「人の病の苦しみを救うために太陽のように生きたい!」と意欲満満。

  石亭グループの方も息子たちの経営で伸びに伸び、米国や韓国にまで進出、限りなく進展している。

 最近渋谷でタイ料理店も始めた彼、長寿百歳は確実といった顔をして私をカメラでパチパチ撮ってくれたが、さすがに一度もファインダーは覗かなかった。

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