編集支援:阿部匡宏/ロゴ作成:配野美矢子
編集:岩田忠利   NO.189 2014.8.30 掲載 

        画像はクリックし拡大してご覧ください。


 
 数少ない茅葺き屋根を守る16代当主
            板垣大助

                     (横浜市港北区日吉
  最終回

                                                  

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和57年11月1日発行本誌No.9 号名「梅」

   
取材・文 :皆川祐美子 (学生。菊名) / 写真:川田英明(日吉)


       徳川家康時代初期、建築の家

  日吉の小高い丘から見下ろすと、視界の中心に矢上川。向こう川崎市側には、人工の建物群、手前横浜市側には、広々とした大地に木々が柔らかな陽ざしを浴びる自然がいっぱい。この両方の風景は、微妙に調和しあって、一幅の絵のようだ。

 手前中央、矢上川の端に広いお屋敷の見える家、そこが板垣家……。ここの16代目当主・板垣大助さん(造園業・59歳)は、職人さんらしくテキパキと応待してくださった。

 
この家が建てられたのは、徳川家康時代の初期。板垣家歴代の墓石に現在のこの地の地名「矢上」の前の地名と思われる「谷神(たにかみ)」という文字が判読できる。これは、太田道灌が江戸城を造りあげる前のものである。
 
 昔の鎌倉街道が板垣家のそばを通っていたことから、先祖は「源氏の流れをくむ者が、そのまま住みついたのではないか」という。

 当家の古さを物語るものに、嘉永6年(1853年)の古文書があり、金子(きんす)5両を持参した養子縁組について書かれている。



矢上川岸にあり、四季折々の野菜・果物が収穫できるという裏山からの板垣家


       銅屋根の下の茅葺き

 この家は、4年前まで茅葺き屋根だった。現在、銅屋根に変えてしまったが、この屋根の下に昔のままの茅葺き屋根が残っている。板垣さんは、ご先祖が残してくれたものを保存し、なおかつ、この屋根の形をくずさないように、と配慮。

 屋根の広さは、280坪。家の広さがおわかりいただけると思うが、この屋根の工法は、「なまこぶき」といって神社仏閣に使われるが、職人さんを探すのにも、一苦労なさったそうだ。

 銅屋根の下に原型のまま、茅ぶき屋根が残っている所は、全国でも数少ない。銅屋根にしてからの住み心地をお聞きすると、「下に茅葺き屋根があるので、夏涼しく冬暖かく、とても過ごしやすい」とご満足な様子でした。

 


茅葺き屋根の上に銅板を使って葺いた屋根。丸みのあるひと味違う趣が…



    1本の木に3種類のリンゴが生る


 板垣家は、代々農業を営んできたが、戦後からは造園業に。自分で作ったものを、自分で値をつけられない農業に疑問を持ったからだそうだ。

 蒔く・差す・接ぐ″が植木職3原則。これを基礎に、自分の作品を作るつもりで、損得を考えずに愛情を持って植木を育てなくてはいけないという。
 その証拠に、1本のリンゴの木に、富士、国光、紅玉と3種類のリンゴがなっている。自分の得意とする、接ぎ木の技術を生かしたものである。

 今年の収獲期にもまた、職人・板垣さんの作りあげた愛情が実を結んでいることでしょう。



筆者の質問に丁寧に応えてくださる、お孫さんを抱く板垣さん



明治時代から使っていた竹筒の貯金箱
「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る