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   編集:岩田忠利     NO.188 2014.8.30 掲載

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33ヵ村の名主が集会した大惣代の家

           池谷光朗


                    (横浜市港北区綱島東


   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和56年11月1日発行本誌No.8 号名「楓」

   
取材・文 :矢敷和子 (主婦。綱島) / 写真:森 邦夫(日吉)



       宮様や鷹匠も宿泊


  東横線綱島駅東口から歩いて5分。綱島街道のすぐ近くにありながら、付近の雑音を木々がみんな吸い込んでしまったように、静けさが漂っている。

 それが15代当主・池谷光朗さんの屋敷であった。(本当はもっと古く20代目ほどになるそうだが、江戸時代に火災にあい、古い書物が焼け、確かなことが、わからないそうである)。

 温厚な雰囲気のご主人、やさしい感じの奥様にまず案内されたのが明治
45年、北白川宮殿下が御宿泊された部屋であった。関東大演習の時、大本営がここに置かれ、宮様が旅館として使用なさったそうである。

 江戸時代には、鷹匠師(千石取りの武士)も泊まったという、風格ある部屋であった。



180年前の建築の母屋。間口14間、奥行き7間、屋根坪200数坪

物置、下男部屋、下女部屋が中2階に






明治45年、北白川宮殿下宿泊の部屋



中央の大黒柱は子供なら2人、大人なら1人が隠れるという


       鶴見川とのたたかい


  間口14間、奥行7間、98坪。屋根坪あわせると二百数坪。こんな大きな家がなぜ180年も前に建てられたのか……。すぐそばを流れている鶴見川が原因しているのだった。

 当時、鶴見区生麦から都筑区佐江戸町までを鶴見川沿岸と呼び、33カ村があった。
 川は毎年何度も洪水を起こし、村々の悩みのタネであり、その改修工事、幕府への陳情などについて名主全員が集まって話し合う場が必要であった。
 そこで、鶴見川の中心地であり、代々名主、それも大惣代(おおそうだい)という名主の中でも上位に立つ役をしていた当家が集会場に当てられたのである。33カ村の名主、それにお付きの人々、約
100人が集まってもいい大きな家、これが建てられたのだ。

「綱島の歴史は鶴見川の歴史です」の言葉に、代々のご先祖が鶴見川改修にいかに力を注いでおられたかを感じさせられた。



“けい(警)”というラッパを持つご当主・池谷光朗氏

鶴見川洪水を村中に知らせるラッパ。音は綱島中に響き渡り、一人T俵の俵を持ち寄って堤防を補強した


江戸時代、33ヵ村の名主だけが出入りを許された「名主の玄関」。今もそのまま現存












       綱島と桃園


  明治時代、祖父・道太郎の代になり桃栽培が始まる。年に3回は水害に遭う土地。米、麦は作ってもすぐだめになる。ちょうど川崎方面から桃作りが伝わってきて、桃の木なら水が来ても大丈夫、ということでアメリカから苗を輸入し、研究を重ね、『日月桃』(長い年月をかけて作った桃)ができた。これが味良し、香り良しで、東京方面で引っぱりだこ。綱島一帯は桃園となった。

 しかし昭和13年の鶴見川大洪水で木は約8割も枯れてしまい、その後は住宅地、工場地帯などに変わってしまった。その名残が毎年4月10日神明神社での桃花祭として残っているのである。



大正13年東京や横浜の果物店に貼られたポスター

新宿・高野フルーツ、銀座・千疋屋などに貼られ、「綱島桃」は一躍有名に


      昭和5年4月、桜と桃の花見

 
写真は「大正堤」と呼ばれた鶴見川土手の現在のピーチゴルフの所。桜並木の両側は一面の桃畑の桃の花。桜と桃の花が同時に咲く、その花見客の行列
 
提供:「とうよこ沿線」編集室







       多くの貴重な古書、資料


 代々名主をなさっていたので、宗門人別帳、幕府への直訴状、年貢割付目録など多くの古書が残っている。それらの資料を学校、県、市の研究の方々に快く提示し、自らも研究を続けているご当主である。

「綱島の人間は毎年の洪水にも耐え、その洪水で運ばれて堆積した硬い土を耕してきた。だから粘り強いのですよ」

 しみじみ語られた言葉に、昔から綱島に住んでいる人々の苦労が感じられ、深く心に残った。



明治初期、銅板に彫られた屋号「河岸」の池谷家屋敷全景

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