編集支援:阿部匡宏/ロゴ作成:配野美矢子
           編集:岩田忠利      NO.187 2014.8.30 掲載  

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   稲毛郷の元代官屋敷 伊藤家

                    (川崎市高津区子母口


                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和56年9月1日発行本誌No.7 号名「萩」

   
取材・文 :渋谷威雄 (元住吉) / 写真:三戸田英文(元住吉)



 平安時代まで遡る千年(せんねん百姓。その後代官


  元住吉から西へ向かい、尻手黒川線「円融寺」手前の坂道を「子母口貝塚」方面へ登ってゆくと伊藤家があります。

 堂々たる長屋門を構えた伊藤家(屋号・長屋<ながや>)は川崎区大師河原の池上家、多摩区長尾の鈴木家、高津区平の杉田家とともに「千年百姓」と呼ばれていました。<川崎史話より>

 由緒あるこの付近には、日本武尊と弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀った橘樹神社や、蓮乗院、さらに五輪塔や板碑の残る伊藤家墓地など、数々の史跡があります。

 千年百姓といわれるとおり、平安時代にまでさかのぼる伊藤家の歴史はさだかでない点もありますが、同家の口碑(こうひ)によると、鎌倉幕府の執権を握っていた北条家の時代から高林又兵衛直重(江戸中期、子母口村・井田村の一部を知行した旗本)まで代官の任にあったとのことです。



正面に式台が設え、座敷に上がれる旧母屋。昭和39年解体



  
    地橘樹郡の名族、伊藤氏(本姓:小曾川氏)

 「新編武蔵風土記稿」の子母口村の項には、

(旧家者百姓藤七<とうしち>小骨川氏なり此村の旧家なり……豊島郡中里村(東京・牛込)宗傳寺の鰐口(わにぐち)の銘に天正10年(1582年)壬午8月1日稲毛郷渋口(子母口)遅川(こそかわ)兵庫助作者としるせり、これ藤七が先祖なるべし、此頃は遅川と書き、この頃より当所に居りしことは知らる)
 と記されています。

 また『姓氏家系大辞典』には《橘樹郡の名族小骨川氏あり〉と載せ、戦国時代後、北条氏家臣に子母口村小曾川氏及び伊藤氏があり、『小田原衆所領役帳』には〈稲毛渋口、庄主分三貫文〉と記されております。
 庄主とは伊藤氏ではないか、といわれており、婚姻・相続などにより、現在の「伊藤」姓になったものと思われます。




2階は年貢米を貯蔵していた長屋門


長屋門入り口には「武者窓」があり、来客を見張っていたという



  
   上の母屋は江戸時代安永年間の建築

 「新編武蔵風土記稿」の子母口村の項には、

(旧家者百姓藤七<とうしち>小骨川氏なり此村の旧家なり……豊島郡中里村(東京・牛込)宗傳寺の鰐口(わにぐち)の銘に天正10年(1582年)壬午8月1日稲毛郷渋口(子母口)遅川(こそかわ)兵庫助作者としるせり、これ藤七が先祖なるべし、此頃は遅川と書き、この頃より当所に居りしことは知らる)
 と記されています。

 また『姓氏家系大辞典』 には《橘樹郡の名族小骨川氏あり〉と載せ、戦国時代後、北条氏家臣に子母口村小曾川氏及び伊藤氏があり、『小田原衆所領役帳』には〈稲毛渋口、庄主分三貫文〉と記されております。
 庄主とは伊藤氏ではないか、といわれており、婚姻・相続などにより、現在の「伊藤」姓になったものと思われます。

 
先祖の兵庫助から数え、現在の寿一さんは18代目だそうです。

 同家は、相州・小田原方面から移住してこられたとの説があり、中興の祖「伊藤忠蔵建築銘(安永6年<1777年>)が大黒柱に残っていた旧母屋は、昭和39年に解体されました。

 歴史が刻まれたかずかずの農機具や道具類は、生田の「日本民家園」に寄贈され、長屋門の屋根瓦は、関東大震災で落下してしまい、修復されました。

 明治・大正時代まで当地方きっての大地主だった同家は、戦前まで年貢米≠ェ長屋門の2階に積みこまれていたそうです。



筆者と同級生の若い当主・伊藤寿一さんご一家



  
   格好の散策スポット

 伊藤家の周辺は、戦前には『宮本武蔵』などの映画ロケも行われ、近年もテレビドラマの撮影もありました。
 
名勝旧跡がふんだんに残る当地には、「影向寺」「能満寺」など憩の場所があります。

 武蔵野の面影を残し、古代からのロマンのあふれる川崎市指定保存樹に囲まれた伊藤家周辺を、野鳥のさえずりを聴きながら、橘樹文化を求めてブラリと出かけてみませんか。

 
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