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   編集:岩田忠利      NO.186 2014.8.29 掲載 

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 古文書の宝庫。上野毛の 田中重義

                        (世田谷区上野毛



   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和56年7月1日発行本誌No.6 号名「榎」

   
取材・文 :豊田真佐男 (郷土史家。等々力) / 写真:三戸田英文(元住吉)

     上野毛一の樹林地帯にある田中邸

  大井町線・上野毛駅を下車、環八を横断して南下すれば直ちに急坂の稲荷坂。
 坂上を右折すれば左に五島美術館、右が室町後期の天文年間以来の名家・田中邸である。
 当主・重義氏で
13代というが、同一襲名のため何代か省かれているらしい。

 三戸田英文カメラマンに請われて豊田が先駆けの奴となった。
 「お約束の時間に遅れて申し訳ありません。三戸田と豊田です」。
 笑顔で私たちをただちに応接間へ招じ入れたご夫妻の挙措に、さすがは玉川全域の徳望を集めている家系とうかがわれた。

 鬱蒼と茂る樹林に囲まれた庭前の喬木に松蝉の声が流れている。



昭和初期、喬木が林立する田中邸の周囲。現在でも田中邸の一角は緑濃き樹林に覆われる

提供:田中重義さん(上野毛)


  
   地名に残る先祖の名

 五島美術館を中心とした広域を古老たちは、筑後丸≠ニ呼んでいるが、桃山時代(織田・豊臣時代)の天正年間の小豪族であった同家の遠祖・田中筑後の守重政の館に由来する。

 秀吉が行った天正文禄の検地は玉川村にも及ぶ。田中家の水帳が当時の耕作の状況を彷彿とさせている。同家の古文書はすべて世田谷区郷土資料館に委託されており、古文書の豊富なことは世田谷・玉川地区随一であろう。



玄関先で笑顔で迎えられる当主ご夫妻









大黒柱に隠されていた建築月日が書かれた墨書きを説明する当主。現代のビルの定礎



     歴史に残る歴代の功績

 
以下同家の事情を略述しょう。

 5代将軍綱吉の悪令による「御犬養育金請取牒」「百姓持馬毛付帳」「浅野内匠頭家来口上書」など地方行政の督令者でもあった。

 話を幕末に飛ばすが、安政6年、田中七左衛門は世田谷領觸次に任命され、さらに嘉永5年大赤字の公儀に3百両を献上、世田谷の代官大場氏へミニエール銃挺を献上している。

 明治14年第1回荏原郡農談合(現在の農協中央研修会)に重義氏の祖父・田中筑閤氏が出席、万丈の気焔を吐いた。
 筑閤氏は政治的才能にも秀で荏原郡郡会議員、東京府会議員に当選、盲目の代議士高木正年を擁立して玉川村を改進党の王国にした実力者だった。新玉川線の前身である旧玉電の誘致には最高の功績を残した人でもある。

 父君・田中重忠氏は元玉川在郷軍人会会長であったが、惜しくも夭折(ようせつ)。

 当主・重義氏は、民生委員の他公職数多を帯びている玉川地区の重鎮である。

 対談のさなかにこの人の哲学にふれることができた。
 「人を信ずるにはそれなりの年輪を必要とします」。
 旧家を守る教訓であると共に『とうよこ沿線』を信頼してくださった一言と感謝します。

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