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 編集:岩田忠利     NO.185 2014.8.29 掲載 

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4千坪の元代官屋敷。母屋は関東最古 
            関恒三郎


                      (横浜市都筑区勝田町


                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和56年5月1日発行本誌No.5 号名「橘」

   
取材・文・写真 :岩田忠利 (編集室) 



  400年の風雪に耐え、現存する関東最古の民家


 綱島駅から勝田団地行きというバスがある。終点間近、右手前方の森の中に茅ぶきの大きな長屋門≠ェ目にはいる。三方小高い丘に囲まれ、重畳の伝統を感じさせるたたずまいは歴史の世界にひき込まれそうな風景だ。

 ここが
400年の風雪に耐えていまなお現存する元代官屋敷、関恒三郎家であった。お屋敷のすぐ前は中原街道、今でいう県道、丸子中山・茅ヶ崎線。

 木立の中でマキを割る当主らしき人影がみえる。
 「コンニチハ、長谷川さんのご紹介で先日お電話した者ですが……」

 さっそく取材交渉。控え目な人らしく、押せども引けども色よい返事がいただけない。断念、おいとましようとしたら
 「こんな家でよかったら:….」
 と
22代ご当主、やっと重い腰をあげて母屋へ。


  
室町末期作の母屋は、国の重要文化財

 重要文化財指定の母屋は、間口11間(20.1b)奥行五5(92b)、神奈川県下はもちろん関東で一番古い民家だそうだ。この建築年代を証明する資料はないが、専門家筋の推定では室町末期作のものといわれる。棟の通りに桁行(けたゆき)にならぶ柱を組み立てた架構は、県下では例がなく、土間上の架構も室町末の造りだそうだ。

 関家はいま、この家で生活している。隅々の太い柱、重厚な引き戸や棚、どれもニスをぬったように黒光り、天井まできれいに拭き掃除されている。

 
400年を越える、祖先の伝統を守る家人の心をかいま見た。



この木造の民家に関家のご家族は、代々400年以上生活しています



 
3代将軍・家光公もお休み。その置き土産が関家の“家宝”

 創刊号でも紹介したが、中原街道は相模国中原(平塚市中原)と江戸城・虎の門を結ぶ道。江戸への最短距離の街道で束海道の裏道として武士や商人の往来は激しく、かつては繁栄した道である。徳川家康がタカ狩りや駿府(静岡市)との往復の便のため平塚市中原に御殿を建てたのは1598年(慶長3年)。以来この道を「中原街道」と呼ぶように。

中原街道に面した関家は、江戸時代から先々代、曽祖父・関八郎右衛門(神奈川県議、県軍部会議長)まで名主と代官≠ナあった名門。なかでも3代将軍家光が、タカ狩りの行き帰りには関家を休憩所としていた。その書院は間口5間〜奥行4間で今なお現存、当時家光公が置き土産とした三つ葉葵の紋入り〃御弁当箱≠ヘ同家の家宝となっている。





3代将軍家光公がタカ狩りの行き帰りに休息した書院も現存



 
長屋門は安政の大地震で崩壊。半分に縮小したのが間口20b

 4000坪の敷地内で目立つ長屋門は、江戸後期の造りで間口11間(20..1b)〜奥行2・5間の2階建て。しかも、この門は安政の大地震で崩壊、明治の頃半分くらいに縮小して再建したのだという。往時の代官の権勢がうなずける。
 
昭和
62年完成をめどに開発が急ピッチで進む港北ニュータウン。ブルがうなる現場は関家から200bの至近。あの代官の栄光の歴史と祖先の積年の苦労が、失われてゆく自然に何かを語りかけているように思えた。




安政の大地震で崩壊。明治後期に半分に縮小して建て替えてもこの大きさ、20.1b
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