編集支援:阿部匡宏
  編集:岩田忠利    NO.171 2014.8.19 掲載 

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昔の町並
昭和9年・12年の 田園調布
                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和60年6月1日発行本誌No.28 号名「栴(せんだん)」

   
構成・編集 :岩田忠利(編集長) / イラスト ・マップ石野英夫(元住吉) 



     分譲開始から僅か14年の田園調布…

  大正時代のはじめ、東京府荏原郡調布村の畑と雑木林が連なる純農村であつた。
 それが明治文化の先覚者渋沢栄−翁の壮大な田園都市構想の実現によってその姿は一変してしまった。その歩みをたどれば……。

大正11年から80万平方メートルに及ぶ地域の分譲開始……。
 翌年
123月、目黒〜沼部間の目蒲線開通と調布駅(現田園調布駅)開業。
  翌13
年東口に3店の商店が出店。
 翌
14年1月には152世帯、人口780人で調布村田園調布としてT行政単位となる。
 翌
15年に駅前に郵便局、さらに翌昭和2年電話開通と渋谷〜丸子多摩川間の東横線開通。
 翌昭和
3年田園調布尋常小学校が東調布第一尋常高等小学校から独立。同3年福徳商店会発。
 昭和9
12月丸子橋完成。
 と、その発展の急速なテンポは他に類を見ない草創期の田園調布である。(岩田忠利) 



大正14年、東口駅前通りに最初の店開店、長生堂薬局

 
 提供:長谷川博さん(田園調布2丁目)




昭和2年9月森総吉邸で財界の重鎮、渋沢栄一翁
         
 
この日は目蒲線全線開通祝賀会の日。森総吉さん(前列5番目。写真提供者・森総治さん祖父)は城南地区を代表する有力者で目蒲線全線開通に尽力したことに謝意を述べるためでした。沿線の名士が渋沢栄一翁(ステッキの人)と左に並ぶ渋沢秀雄さん(田園都市鰹d役)を囲んで。
 
提供:森 総治さん(田園調布2丁目)





 昭和5年(1930)、東口上空から西口を望む。右上に玉川浄水場、左上に多摩川
               
                         提供:森 総治さん(田園調布2丁目)

 
線路の左手に東横線と目蒲線(現目黒線)が通過する“開かずの踏切”が見えますが、これは昭和39年東西口を結ぶ地下道が完成しその問題は解決しました。
 この写真の昭和5年は、写真提供者の森 総治さんが小学校6年生のとき。宝来公園でホタル狩をしたり、浅間神社前の田んぼでドジョウを捕ったり、家族で多摩川の屋形船で鵜飼に興じたり、少年時代の思い出が詰まった年でした。

 

  田園調布商店街 全体図



上のマップ中の「D]の旧中原街道は、前号のNO.170「沼部編」に掲載しました。


       昭和12年旭野会


                                         復元:白須脩夫(白須洋服店)

        昭和9年福徳商店街


復元:宮門一興(宮門商店)

        昭和9年六商会


復元:山田義男(山田運送店)

 6間道路はホントに6間道路か?

結論から先に言うと、「6間道路ではない」。道幅6間はない。

 田園都市の開発に関連、旧中原街道に近いこの地域も耕地整理を急ピッチで進め、幹線道路として現在の六間道路をつくった。
 当時の道路予定地は、
1か所竹薮がある程度であとは一面の畑だった。

畑のど真ん中に、突然広い6間幅の道路ができるとは…、と村人は唖然とした。そして耕地整理の役員たちは「あの村長は誇大妄想狂だ」と大野政助村長の計画に猛反対。結局、道路両側の下水道を含む道路で折り合いがついた。

 この話の証人・野村茂造さん(
86歳・田園調布本町)は「バスや車の往来が激しい今となれば、あの道幅は6間にしておけばよかった」。将来を見越した街づくりの必要性を力説される。

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