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編集支援:阿部匡宏 |
編集:岩田忠利 NO.168 2014.8.17 掲載 |
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昭和25年の綱島家並
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沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”
掲載記事:平成元年4月1日発行本誌No.46 号名「栂(つが)」
構成・取材・編集 :岩田忠利(編集長) / イラスト ・マップ:石野英夫(元住吉)
西口の復元:田中幸雄(綱島西) / 東口の復元:池谷光朗(綱島東)
協力:飯田江助・城田辰夫・吉原清一・中山弘・高橋峯夫・田中芳太郎・海野富治・田口七郎
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悪ガキ時代の綱島
話す人:田中幸雄(綱島西1丁目。西口マップ原作者)
昭利25年といえば、私が18歳のとき。朝鮮動乱が勃発し、地元では綱島小学校が開校したのだった。当時綱島には約80軒の温泉旅館とその何倍もの芸者がいて、最も賑わっていた。その温泉街の東側を走る子母口通り沿いにはすでに商店が軒を並べた桃栄会通りという商店街があり、ここが栄えていた。
私が15歳の頃、家は精米屋のかたわら、煙草とお茶を売っていた。当時近くの石井酒店では、ビールの空き瓶4本を持ってゆ<と、本物のビ−ル瓶1本と交換してくれた。煙草屋のせがれの私は、12歳の頃から煙草を吸っていたので、一人の不良が「どうしても吸ってみたい」という。
で私は、交換条件を出した。「1本あげるからビールの空き瓶1本持ってこい!」。これを真に受けた彼は、仲間6人と一緒に大八車を借りてきた。そして梅島舘の庭に山と積まれた空き瓶の箱を、白昼堂々、大八車に載せていた。と、そこへ主人の打越さんが現れ、「この野郎……」。みんな捕まってしまった。
しかし感心なことに、犯人たちが「実は、主謀者は煙草屋の幸雄ちゃんなんだ」とは、白状しなかった。そう、同じ悪ガキでも昔と今では、だいぶ違っていたと思う。(岩田忠利)
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昭和21年9月、長い苦難の戦争から解放され戦後初の祭り
終戦から1年が経ちましたが、依然として食糧不足、極度のモノ不足は続いています。そんななか、鎮守様、諏訪神社の祭礼に漕ぎつけ、子供や大人に笑顔が見られます。ヨシズ張りの舞台は綱島西口駅前に地元の皆さんの手で設営されました。
提供:吉原清一さん(綱島台) |
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昭和35年、地域の皆さんが耕運機持参で
校庭の砂塵防止作業に出動
田んぼの中に建った綱島小学校は、ひとたび風が吹くと眼を開けていられないほどの“砂塵の世界”。そこで父兄やOBが10台以上の耕運機を出動し、運動場の土を掘り起こし、食塩7.5トンと土とを混ぜてローラーで整地。風が吹くとホコリが舞う校庭が常に湿気を保たせ、ホコリが立たないようにするためです
提供:鈴木次郎さん(綱島台)
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昭和31年1月、綱島台・飯田助丸家の氷場
天然氷の氷場は現在の綱島郵便局の左側、山裾の森の中にありました。
提供:小泉実さん(綱島台)
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綱島の農家は古来、水田灌漑用の水に苦しんできました。鶴見川に接していながらその水面が低く、取水できなかったのです。そこで、日吉を流れる矢上川の水を引く「矢上川用水」(右上参照)を造り、綱島東地区と綱島西地区の水田を潤しました。この用水の珍しい点は、下流から上流に水を流すこと。この用水の途中に“水車”(マップ中央)があり、水車を回して水を上流に引き上げ、西口方面に流しました。
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綱島は東横線の開通当時、駅名が「綱島温泉」でした。それを象徴するように鶴見川沿岸に温泉旅館が集中しています。太線で囲んだ所が現在のイトーヨーカドー。東口の駅前周辺の15軒と合わせると、総温泉旅館数は約80軒に及ぶようです。
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