編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利    NO.162 2014.8.15 掲載 

画像はクリックし拡大してご覧ください。

昔の町並

   奥沢商店街町並
                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和61年7月10日発行本誌No.34 号名「樺」

   
イラスト ・マップ石野英夫(元住吉) 
    取材・復元 :西野定正(奥沢2丁目) / 野口末吉
(奥沢4丁目) / 原忠男(奥沢2丁目)
    協力小田房秀(奥沢2丁目)





      奥沢商店街の移り変わり

 

大正6年ころ、田園都市計画により当時の玉川村と東調布村の分譲が開始され、同12年には目黒〜多摩川園間の複線が開通、電車による交通の便がひらかれた。

その時、奥沢駅北側と線路沿い地域が買収され、この地域から玉川田園調布にかけて住宅が建ってきた。と同時に地主の人たちが分家を出して商売を始める家がチラホラ。その後、近隣の人も街の発展を見越してて開業する人がふえ、終戦まで発展を続けた。昭和6年から10年にかけ、丸山稲荷の縁日≠ェ開かれ賑わった。

戦後ヤミ市から出発した自由が丘や雪が谷大塚の商店街に客足を奪われ、斜陽化傾向にあった。だが近年、自由が丘駅南口から奥沢にかけ、商店街が広がりをみせ、新たに生まれ変わりつつある。



      昭和15年(1940)10月11日、紀元2600年祭、奥沢銀座通りの賑わい

 右手の町並みは高野たばこ店、ヤング軒、小泉ガラス店、白柏金物店、遠藤時計店、下田薬局。左側手前から根岸酒店、松本果物店、池田屋下駄店、鈴木茶店、大黒屋呉服店。

 提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)


 昭和7年、調布学園の裏を走る“新奥沢線”の軌道

右下に当時の「諏訪分駅」のホームの屋根の一部が見えます。その延長線が始発の雪が谷大塚駅、終点は諏訪分駅の次の「新奥沢駅」。新奥沢線はわずか2駅だけの1.6キロの距離でしたが、昭和3年10月から10年10月末までの7年間走っていました。
 
提供:調布学園(玉川2丁目)


  昭和17年、奥沢神社の祭り。太鼓を引く子どもたち

 後方が奥沢駅。今の自由通りと奥沢銀座通りの分岐点あたり。左側に。清月菓子店、文雅堂書店の看板が見えます。
 提供:奥沢神社(奥沢5丁目)



     昭和19年疎開前 東口の町並


★白抜きの店名は取材時(昭和61年)同じ場所に「現存」しているもの。灰色の店名は転業または移転し現存しているもの。

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る