編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利    NO.161 2014.8.14 掲載 

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昔の町並

昭和30年太尾町(現町名「大倉山」)
                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和63年12月20日発行本誌No.45 号名「柑」

   
企画・取材・文 :岩田忠利(編集長)  イラスト ・マップ石野英夫(元住吉) 

    農家の復元:
磯部清司(太尾町) / 屋号・当主の調査:歓成院世話人会一同

      協力吉原末吉/田島源治/秦野豊吉/山本喜代子/黒川太郎




         青少年のころの大倉山

                  話す人:磯部清司さん(且R清・社長。太尾町)


 

綱島街道は昭和14年頃できたが、当時は砂利道で10尺くらいしかない狭い道だった。
 現在の川崎信用金庫とその周辺が大綱小学校で、新幹線が校舎のすぐ横を走るようになってから、児童が「新幹線だ!」と騒いで授業ににならない。で、昭和42年に現在地に引っ越したんだよ。

子供の頃の大網小の学区は広く、綱島・菊名はもちろん、妙蓮寺や白楽からもテクテク40分もかけて通って来る生徒も多かった。
 網島方面に行くには、二つのコースがあった。一つは神奈川方面から来た人は、網島街道の“おぼろ坂”を通る。もう一つは、小机方面から来た人が私の家の前の階段をのぼって大倉山公園の山越えをするコース。この道は歓成院の北側の遁で、今では細い道だが、当時はそれでも“街道”だったんだ。その証拠に現在でも「ケエド」という屋号の、磯部仙仁三さんの家がある。

当時の鶴見川の流れは、現在とはまったく違う。流れは大倉山寄りに蛇行していて“太尾橋”という橋を渡って、新羽の庚申塚へ行ったもんだ。上げ潮のときには、船が鶴見の河口からこの太尾橋まであがって来た。
  小舟が人糞を積んで運び、それをリヤカー引いて、受け取りに行く。農家はどの家でも貴重な肥料にするためだ。だから、まだ東横線が開通しない頃は、ここか大倉山の“銀座”と呼ばれ、いかがわしい女がいる“ちゃぶ屋”もいっぱいあったそうだ。

 大倉山に最初に住宅ができたのは、昭和31年で、うちは現在の大倉山ハイムの所に150坪の土地があった。それを県営が坪3千円で買い上げた。その金で初めて中古車1台を買って車庫を造ったら何も残らなかった、と亡くなった親父は嘆いていたよ。
 数年後、現在の大網小の前を東急が坪
7千円で買収し住宅地にした。さらに46年には、不動産会社が坪13万円で農地を買って大倉山ハイムの各棟をつぎつぎ建ていった。この辺の発展はそれからだよ。



 昭和10年、太尾町観音前の田んぼ。丘の上に大倉山のランドマーク、大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)が見える
  撮影:黒川太郎さん(太尾町)



 昭和20年、東横線開通前は大倉山の“銀座”と言われ栄えていた太尾橋の周囲
 提供:山本喜代子さん(太尾町)



昭和41年、新幹線車中から東口駅前を望む
水田は現スーパーマルエツあたり

撮影:黒川太郎さん(太尾町)




    昭和30年の太尾町・町並


★マップは1枚目が大倉山駅東西駅前周辺、2枚目がその続きで西方へ。3枚目をその続きの西北方面。

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