青少年のころの大倉山
話す人:磯部清司さん(且R清・社長。太尾町)
綱島街道は昭和14年頃できたが、当時は砂利道で10尺くらいしかない狭い道だった。
現在の川崎信用金庫とその周辺が大綱小学校で、新幹線が校舎のすぐ横を走るようになってから、児童が「新幹線だ!」と騒いで授業ににならない。で、昭和42年に現在地に引っ越したんだよ。
子供の頃の大網小の学区は広く、綱島・菊名はもちろん、妙蓮寺や白楽からもテクテク40分もかけて通って来る生徒も多かった。
網島方面に行くには、二つのコースがあった。一つは神奈川方面から来た人は、網島街道の“おぼろ坂”を通る。もう一つは、小机方面から来た人が私の家の前の階段をのぼって大倉山公園の山越えをするコース。この道は歓成院の北側の遁で、今では細い道だが、当時はそれでも“街道”だったんだ。その証拠に現在でも「ケエド」という屋号の、磯部仙仁三さんの家がある。
当時の鶴見川の流れは、現在とはまったく違う。流れは大倉山寄りに蛇行していて“太尾橋”という橋を渡って、新羽の庚申塚へ行ったもんだ。上げ潮のときには、船が鶴見の河口からこの太尾橋まであがって来た。
小舟が人糞を積んで運び、それをリヤカー引いて、受け取りに行く。農家はどの家でも貴重な肥料にするためだ。だから、まだ東横線が開通しない頃は、ここか大倉山の“銀座”と呼ばれ、いかがわしい女がいる“ちゃぶ屋”もいっぱいあったそうだ。
大倉山に最初に住宅ができたのは、昭和31年で、うちは現在の大倉山ハイムの所に150坪の土地があった。それを県営が坪3千円で買い上げた。その金で初めて中古車1台を買って車庫を造ったら何も残らなかった、と亡くなった親父は嘆いていたよ。
数年後、現在の大網小の前を東急が坪7千円で買収し住宅地にした。さらに46年には、不動産会社が坪13万円で農地を買って大倉山ハイムの各棟をつぎつぎ建ていった。この辺の発展はそれからだよ。
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