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   編集:岩田忠利    NO.156 2014.8.10 掲載 

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歴史

 品川用水(最終回)

                                                 

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和62年6月1日発行本誌No.38 号名「楢」
   執筆・撮影 :一色隆徳
(祐天寺・大学生)  地図 :伊奈利夫(桜木町・団体職員)


 世田谷・目黒・品川……今でこそ高級住宅地の代名詞となっているこれらの地域も、昭和以前は、郊外の農村に過ぎなかった。
 その時代には河川・用水が何らかの形で農業を助けていたわけであるが、それらは今、都市化の中で汚され、多くは埋められて緑道となり第二の務めを果たしている。

 品川用水もその一つであるが、その流れはすべて埋められ、道路となり、痕跡を残していないことから、かつての存在すらもほとんど知られていない。




   品川用水の歴史……玉川上水から農業用水に


 東横沿線のすべての用水路は、一帯で最大河川たる多摩川を源としている。

 二ケ領用水(NO
.141で掲載)、六郷用水(NO.142)、玉川上水、そして玉川上水から分流された三田用水(NO.154)、同様に分流された目黒川(NO.140の上流部の烏山用水と北沢用水等がそれにあたる。

 品川用水もまた、玉川上水より分流されたものであり、もともとは1664年(寛文4年、徳川4代将軍家綱の時世)品川区戸越の細川越中守・抱屋敷(現戸越公園)庭内池に引水するために掘られた私的水路であった。 当時戸越上水と呼ばれたものがこれであるが、ほぼ同時期、細川家は白金の下屋敷に玉川上水を分けた同様の専用上水(後の三田用水)を所有していた。これは、とりもなおさず当時の細川家の力を物語るものである。

 戸越上水は、正確には玉川上水(武蔵境・浄水場付近)から引水されていた仙川養水(仙川のかつての上流部)からの分流であった。
 この上水は、維持に要する莫大な経費のために僅か2年で廃止されてしまったが、1667年領域農民の願いが幕府に聞きとどけられて、新たに品川用水と名を変え、農業用水として再生することになった。
 この経緯は細川上水→三田用水の例と酷似している。



旧仙川養水(右道路)からの分水点に残る水路跡(左)




玉川上水・武蔵境浄水場横の用水取水点。用水廃止後も水門(右)だけがそのまま残る





   流路……武蔵境〜大井町方面 30`
 


 品川用水誕生後、前記仙川養水は廃止。これにより、玉川上水からの取水点と旧戸越上水分水点の間の水路については、品川用水導入部として転用され、そのまま存続したのである。

 品川用水の流路については上の地図のようになっていた。

 武蔵境から三鷹・千歳烏山・千歳船橋・桜新町へ、駒沢から上馬(国道246号線)へ、ここから環状号線・野沢交番へ、そして学芸大学・武蔵小山を経て(都道補助26号線)戸越公園へと続くルートがそれである。戸越では用水は2流に分かれ、一方は大崎で目黒川へ、他方は大井町を経て鮫洲・青物横丁付近で海へと落ちていたという。



都市交通の大動脈、環状7号線(野沢)。中央部にかつての品川用水が……



東横線学芸大学駅近くの都道補助26号線。祐天寺駅寄りの(右)約半分が品川用水の水路だった



   今はなき流れ…35年前の最期



 東洋一の規模といわれた“野沢水車”を用いて穀物等をひく水車業を営んでいた世田谷区野沢の根岸家当主・根岸一彦さん(57歳・造園会社社長)は、品川用水の昔をこう語る。

 「昭和10年前後の用水は結構きれいで、ホタルがいるほどでした。フナや川エビ、ハヤなど、子供の頃よく捕ったものです。昭和1516年あたりから沿岸に建売住宅が増え、水は汚れ、昭和27年にはついに都内から集まるゴミで埋めたてられてしまったのです」。

 用水の往時を偲ばせるものは僅かに玉川上水からの取水門(武蔵境)、旧仙川養水からの分水溝(三鷹市新川)、水車橋(世田谷区野沢)や平塚橋(品川区)等のバス停名に残るのみである。

 古くは武家用水・農業用水として役立てられ、その落水・漏水によって烏山用水や水無川(目黒川の上流部)、呑川、谷沢川(等々力渓谷上流部、NO.147参照)、蛇崩川と羅漢寺川(目黒川支流)等の水源の一部となるなど多方面に影響を及ぼしてきた流れも、今はただ忘れ去られてゆくのみである。



戸越上水時代の終点(細川家お抱え屋敷)、今は戸越公園に…

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