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     編集:岩田忠利     NO.155 2014.8.10 掲載 

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歴史

 渋谷水(古川)

                                                 

 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和61年12月1日発行本誌No.35 号名「栃」
   執筆・撮影・地図 :一色隆徳
(祐天寺・大学生)


 東横線の電車が終点、渋谷に近づく。線路に沿い、右手には半ば涸れた川、それが渋谷川。

 渋谷の町の華やかさと裏腹に、さびしく流れる……。



    変貌を遂げた川(新宿御苑〜原宿)



 新宿御苑のはずれ、四谷大木戸跡。三百余年の昔、江戸の飲料水を確保するべく掘られた、玉川上水の終点である。福生から導かれた多摩川の水は、ここから木管や石管で市中へと分水され、その余水を落とされていたのが渋谷川である。本来の水源は御苑内の湧水だったというが、苑内に、もはやその形跡は見出せない。分水溝は、昭和
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年の上水廃止時の面影を保ってはいるものの、それに続く渋谷川の流れは埋められ、すでに無い。

 埋められた川(もはや河跡というべきか?)は、しばし御苑に沿い、離れ、緑道へと姿を変える。千駄ヶ谷で中央線とクロスし、神宮外苑をかすめ、渋谷区に入る。路地となり、緑道となり住宅街を抜けると、原宿・表参道に出る。言わずと知れた我が国のファッションの最前線であり、華やかな彩の服を身にまとった人々が溢れている。江戸の昔、田畑であったこの地も、大きな変貌をとげ、渋谷川も明るい遊歩道に変わった。原宿に緑道はよく似合う。

 実際、原宿から渋谷へのデートコースとして、この緑道を歩いているカップルも見かけるから、渋谷川も埋められて役に立っていると言えなくもない。



玉川上水からの分水地点


原宿・表参道付近




   描かれた水車、歌われた小川(渋谷)



 緑道の形態のまま、渋谷川は明治通りに沿って、渋谷駅勢圏に入ってゆく。

 渋谷に生まれ育った「土地っ子」・浅間良雄さん(
76歳・酒店経営)は、渋谷川の昔をこう語る。
 「まだ幼かった頃(大正時代)はよく川で泳いだり水遊びなんかしたっけねえ。水が冷たかったことはよく覚えてるよ。釣りなんかは余りしなかったけど、魚や海老もいた。いつの間にか川も汚れて埋められたけど、昔は大雨が降るたびに溢れて、周りの家の床下から畑から水浸しになって大変だったね。水車や小舟なんかもあった」

 渋谷川には水車も多くかけられていたという。粉ひきや精米に用いられたものだが、架設の必須条件となる水量・落差の
2点が渋谷川に備わっていたからであろう。
 渋谷の水車は、かの葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』にも描かれた。隠田(おんでん)とは神宮前あたりの古い地名であり、描かれたのは
150年ほど昔だという。



葛飾北斎作『富嶽三十六景』の「隠田の水車」






安藤広重作「広尾ふる川」
「ふる川」は渋谷川の別名。
「名所江戸百景」から




安藤広重作「玉川堤の花」

「名所江戸百景」から



 また、これは以前、新聞で読んだことであるが、♪コトコトコットン……という童話『森の水車』も、この辺りの水車を歌ったものであるという。この辺りの現在の風景(写真下)を見たところでは、想像し難い変容ぶりである。

 川筋はその後、明治通りを渡り、宮下公園へと入り、渋谷駅に至る。

 渋谷駅北端……ここに『森の水車』と同様に歌のモチーフとなった川が合流する。代々木に端を発し、今の東急本店前を流れていた支流・宇田川。その上流が、あの唱歌『春の小川』の舞台である。(大正元年 高野辰之・作)

    春の小川はさらさら流る

    岸のれんげやすみれの花よ

    にほひめでたく色うつくしく

    咲けよ咲けよと ささやく如く

 歌が作られた大正末期まで田畑を潤していた流れも、とうに埋められ、今や町の名として残るのみとなった。

 


歌「春の小川」の舞台、宇田川上流の現在(渋谷区元代々木町)












神宮前付近。歌われ描かれた当時の面影はない




 流れあれども…
      (渋谷〜港区)



 渋谷駅南端……東横線ホームの脇に、渋谷川は、ようやく水のある姿を現す。

 東横沿線住民には、おなじみの風景。しかし、その流れは浅く河床は赤茶け、土地っ子に聞く川の面影は微塵もない。林立するビルに挟まれ、圧迫感さえ覚えるこの風景は、渋谷に対する一般的イメージとは対照的であり、また、それが東横線の車窓から川を眺める私たち沿線人に強烈なインパクトを与えているに違いない。

 コンクリートの河床は、恵比寿・広尾へと続く。江戸時代の地図を見ると、川を挟んで内側(城寄り)には武家屋敷、外には田畑と、明確な区分がなされている。さながら、市中と近郊農村との境界線といったところか……。



   7つもの名を持つ川



 ところでこの川、流域によって多くの名を持っている。新宿区では「余水川」、渋谷区では「隠田川」・「渋谷川」、港区に入ると「古川」・「金杉川」・「赤羽川」・「新堀川」などである。正式名称は「古川」、他は呼称である。(以後、古川と呼ぶ)

 港区に入ると、古川の風景は一変する。この先河口までの間、首都高速の高架が川の上を覆い、いかにも都市河川という言葉がぴったりだ。周囲は真昼の眩しいほどの陽射しであるのに、ここだけが暗く沈んだような雰囲気……。

 過密都市・東京。道路用地・公共用地の確保もままならぬ状況が、河川を一層追いつめる。もっとも、行政側もただ手をこまねいているわけでもないようで、来年度から古川に下水処理水を導入し、水量増と浄化を計るほか、護岸を改良し親水公園化するという。
 良くも悪しくも、古川は今後も大きく変容してゆくことであろう。



高架下にたくさんの漁船が繋留された浜松町駅付近。その先を新幹線が渡ってゆく



   河口へ(東京湾に注ぐ)



 白金・三田・麻布と下り、川は2度直角に折れる。東京タワーを左手・間近に見ながら下るが、ゴミの浮いたどす黒い水はもはや流れる力を失い、澱んでいる。

 浜松町駅北で国電とクロスすると、河口はもう、すぐそこである。

 小さく打つ波と潮の香り。目の前に開ける東京港。

 水は自然に還る。



河口付近。造形が見事な高速道路の下を、川は流れる







海へ。遠方は豊海・晴海の両埋め立て地














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