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編集:岩田忠利       NO.151 2014.8.08 掲載 

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歴史

    呑川

                                                 

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和60年6月1日発行本誌No.28 号名「栴」
   執筆・撮影 :一色隆徳
(祐天寺・大学生)  絵:中島雅子(田園調布・大学生) 
   取材:福田智之(大森) / 数野慶久(奥沢) 



 呑川…新玉川線桜新町駅近くに端を発し、都立大学駅下を経て羽田空港前の運河に注ぐ。

 古来、世田谷・目黒・大田の3区の農地を潤す灌漑河川であったが、たびたび田畑を「呑みこんだ」のが川の名になったといわれている。

 当然ながら、かつての清流は汚れ果て、ドブ川同然と化している。



    サザエさんの生地、桜新町の源流地点……
 


 
世田谷区新町2丁目、住宅街の中に呑川の始点がある。かつてはこの地に湧水が見られ、呑川本流の水源になっていたという。5,6年前に訪れた折には、細々とした流れを見て、「これが呑川の源流点か」と感慨にふけったものだが、今こうして取材で再び来てみると、果たして川は埋められて緑道や路地となっていた。

 大きなショックを覚えながらも、またもや例の川下りを始めよう。
 もともとこの辺り、溝のような川だったから、緑道化されて少しばかり小ぎれいになったと言っても、やはり冴えない。そう、ここ桜新町はあのサザエさんの生地だ。サザエさんの生みの親・長谷川町子さんはこの地の住民である。

 まだ若い植木を横目にだらだら下り、国道246号線を越えた時点でようやく水流が姿を現す。わずかに残った土の河床には緑の草が生い茂り、両岸には桜並木が続く。

 
水量は少ないが意外に澄んでいる。と思って数歩進むと、一転して水かさが増え、水は濁る。家庭排水が大量に流入するためだ。ともかく水質には目をつぶり、春を楽しみながら下るが、深沢高校・日体大の横を抜けると、またしても川は暗渠下へ吸いこまれてしまう。


    目黒区内を流れる川は暗渠化で姿を消す


 呑川の姿が消えたのは、河川溝の中に太いヒューム管を通してこれを埋め、地上に遊歩道や公園を造ってしまうという目黒区の緑道計画の結果だ。これによって目黒川を除き、区内の全河川は全て姿を消してしまったわけだ。素直に受け入れる住民が多い中、「馬鹿の何とやら」と自嘲しつつも敢えて毎回このページで訴え続けていることでもある。

 今回は、「とうよこ沿線物語」でお馴染みの前川正男氏著・『呑川物語』(自費出版)の一節でこれに替えさせていただこう。

 ――呑川は可哀相な川だ。何千年と目黒を流れて稲を育て、蛍を養ってきたのに、目黒の都市化によって地下に埋められ、営々として、日夜、数十万という流域の人々の汚水を運んでくれている――。

 緑道など、どこやらの植木市と同じように見える……というのも極端な考え方だろうか。
 川は駒沢公園付近から流れる駒沢支流を八雲で、そして東が丘・野沢付近に端を発する碑文谷支流(いずれも暗渠)を合わせる。

 幸か不幸か八雲学園の女子高生たちの登校の波に巻き込まれ、都立大学駅下を抜けると、人通りもまばらになってしまう。大岡山に至ると、源流から続いていた桜並木が唐突に途切れ、川跡は目黒十一中の校庭に吸収される。



昭和27年、八雲1丁目を流れる呑川

 前川正男著『呑川物語』から
~~
私の家の前を呑川という不思議な名前の小川が流れていた。40年前、当地に引越して来た頃、まことに、のんびりした田園風景の地であった。
 まわりは、ほとんど畑で、ヒバリの舞いあがる声も緑の風に乗って流れてきた。呑川は、さらさらと美しい水を流していた。土手には、適当に雑草が茂り、秋には赤トンボの群れが、川を上下していた。その頃私の長女は、赤トンボを追いかけて、ドブンと川に落ちて大騒ぎしたこともあった。夕闇迫る頃ともなれば草むらに点々と、螢の灯が明滅していた。~~

 
右手の家は前川正男さん宅と前川さんの工場。
 
提供:前川正男さん(八雲1丁目)



 写真左の場所、現在(2013.5.4)

 
写真左の左岸後方に前川家所有の木造アパート「八雲荘」がありましたが、築80年弱で、今なお“健在”です。右手が前川さんのマンション
            撮影:岩田忠利













昭和27年の呑川。中根橋と目黒通り

提供:前川正男さん(八雲1丁目)



  写真左の中根橋と目黒通りの現在

 右後方の車は目黒通りを通る車。呑川が暗渠化され緑道に。桜の木もこんなに大木になりました。2013.5.4撮影:岩田忠利



    大田区内で再現する呑川の姿



 再び現れる呑川は、埋められていない〝川〟の姿を取り戻す。大岡山周辺は緑も多く、また流れも早いため、どこか渓谷を思わせる一面がある。

 緑が丘を発車した大井町線と、奥沢を出た目蒲線が交差し、共に大岡山を目指して走る。その下を呑川がまた、くぐり抜ける。この三重交差の様子が面白い。少し下流では支流の九品仏川が合流。等々力から自由が丘駅前を流れ注ぐもので、興味深い点も多い河川。

 河床は何度も段を作り、驚くほど深くなる。氾濫を繰返してきた呑川に対する大改修工事の結果だが、おかげで川底に露出する沖積層の岩盤も見られる。これは太古の昔、多摩川がこの一帯を流れ、砂礫や泥が堆積してできたものだと思われる。

 中原街道・池上線を越えると、延々と一直線に川は流れる。河床は浅く水底には砂利が見える。赤茶けた銅板の護岸が、汚れた川を一層さびれた風景に見せている。洗足池を水源とする支流を合わせ、第2京浜道を渡ると池上、かの有名な本門寺の門前町だ。衆知の通り、本門寺は日蓮宗の寺院で、開基七百年という都内でも指折りの名刹といえる。

 山門下から半キロほど川を下ったところ、六郷用水がクロスしていたという。用水も埋めたてられてしまったが、一部は緑道となって残っているので当時を偲ぶことができる。六郷用水は江戸期に狛江の多摩川から引かれた農業用水で、千鳥町で北堀と南堀に分かれ、全流域で周辺の農地に分水していた。

 実はNO.142では誌面の都合で北堀および全ての分流は省いたのだが、その北堀が、ここで呑川と交差し、大森方面へと貴重な水を送っていたようだ。



    “新呑川”が造られ旧呑川は埋められた下流


 国鉄蒲田駅裏を過ぎる。ところどころにどす黒いヘドロの洲があり、水も同じように汚い。京急線を越えて、なお下る。かつて呑川は、今の東蒲中学敷地内から左に蛇行して流れていたが、昭和10年、氾濫対策として椛谷の田畑を一直線に海へ流す、いわゆる〝新吞川″が掘られ、無用化した〝旧呑川″は昭和30年代から徐々に埋立てられたという。旧河口だけは唯一、埋められずに残り、今も舟溜りとして使われている。
 この辺りは、水質悪化のため、東京オリンピックを機に、埋立てられてしまったという。

 さて、新呑川に戻って一気に下ろう。新呑川は当初から運河の役目を果たしてきたが、それは今も変わらない。両岸には作業船が並んで繋留され、時折往きかう。最下流の橋に立つと、建ち並ぶ工場の吐く煙に河口が霞んで見えた。

 この辺り、江戸時代には森ケ崎処刑場のあったところ。林立する煙突・汚れた運河・羽田から飛びたつジェット機……時代は移り、文明が進歩してもやはり暗い光景の地であることに変わりはない。

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