編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
編集:岩田忠利      NO.142 2014.8.02 掲載 

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歴史
   六郷用水
                                                 

 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和59年3月1日発行本誌No.21 号名「檜」

   
執筆・撮影 :一色隆徳(祐天寺・大学生)  絵:山影昌子(妙蓮寺・中学生) 

     
資料収集:数野慶久・磯野 猛


 東京、神奈川の都県境をなす多摩川。東横沿線で最も大きな流れで、江戸時代の人々はこの水を引いて暮しに役立てた。

 飲用水としては玉川上水が有名だが、東横沿線には「六郷用水」と「二ケ領用水」の2本の農業用水が、東京・川崎の両岸に引かれた。

 二ケ領用水については前号NO.141号を読んでいただくとして、六郷用水の概略に触れておくことにしょう。

 六郷用水は、16世紀に小泉次太夫が造らせたところから、別名「次太夫堀」また「丸子川」とも呼ばれた。

 他の河川の例にもれず、今では用水としての機能を失い、汚水のはけ口としての存在意義しか残されていない。


 
    和泉の取水地点から


 六郷用水の取水点は、かつて狛江市和泉に設けられていた。着いてはみたが、取水堰は跡形もない。

 河川には親子連れや釣人やサイクリングの若者たちの楽しげな声が溢れている。いつ見ても、おだやかな構図……。上流には二ケ領用水の取水堰、遠く丹沢山塊と白き富士も見渡せる。

 さて、いよいよ用水を下ろう。水門なき用水は埋められ、側歩道に変ってしまった。小田急線を越えて、世田谷通り沿いに下ると、ようやく流れが現れた。見れば、用水の流れを再現して親水公園としたもので、「次太夫堀公園」と呼ばれている。


和泉の旧取水地点(狛江市和泉)

 親水公園はNO.140の目黒川の取材(烏山用水)でも見たが、住民に親しまれた河川が次々に埋められてゆく中、こうした試みは非常に嬉しいものだ。
 同行の えんせんっ子=@の数野君は「世田谷区も味なことをしますねェ」と評したが、全く同感--用水が不要になったといって、むやみに埋めずに上手に利用してもらいたいものだ。

 公園を抜けると、野川に突き当たる。かつて用水は野川に合流し、1`ほど下流で再び分離していたという。仙川をまたぐと、ようやく本来の流れを見ることができる。岡本辺りでは(未だ畑地が多く残っているためか)水は意外に澄み、田園地帯を思わせるような雰囲気に満ちている。昔ながらの土手を、霜柱を踏みしめて歩く。何か懐かしい気分になる。足の爪先は痛いような寒さだ。もう春も近いというのに・・・。



流れを活かした親水公園、「次太夫堀公園」





 未だに自然のままの六郷用水(世田谷区岡本)


閑静な住宅街をひっそりと流れる(玉堤)


 
    静かな街々を抜けて

 用水は次第に排水溝の様相を帯びながらも、静かに流れてゆく。
 登校途中の高校生の一群が橋を渡ってゆく。筆者も、かつてこの群れの中にいた。毎朝、この用水を覗きこんでは「汚ないな」と思ったものだった。都市河川など所詮は、こんな存在でしかないのだろうか。
 上野毛自然公園を横目に、閑静な邸宅街を下ってゆくと、谷沢川(等々力渓谷)と交差する。都区内唯一の渓谷として有名な谷沢川、このページでもいつか取材する予定--乞う御期待!
 ここで水を落した用水は、雨水・汚水を集め、田園調布に至る。ひっそりとした辺り。木漏れ陽が反射する。岸辺の大木が、用水の歴史を物語る。
 多摩川台公園の脇を抜けると、多摩川が見える。鉄橋を東横線の電車がゆっくりと渡ってゆく。見馴れた、それでいて懐かしい風景。
 水は、ここで再び多摩川に落とされ、ここより先は暗渠化され、歩道と化す。



多摩川台公園下を流れる









東横線が六郷用水を跨ぎ、多摩川鉄橋にさしかかる


 
    水の無い川、下流部


 目蒲線・新幹線をくぐると、また親水公園が沼部駅付近にある。こちらも人工河川で、かつてのままというわけにはいかないが、なかなかのもの。

 用水路は大きくカーブして環八道を渡る。環八未開通区間の迂回路となってそのまま環八に沿って、蒲田の国鉄電車区へと至る。用水は、ここまで幾筋もの分水をし、ここでまた枝状に流れを分けて散ってゆく。

 かつて、いくつかの流れは再び多摩川に還っていった。河口の一つが、今も小さな池として六郷の土手に残る。



もう一つの親水公園(田園調布南)


かつての終点の一つ、河口(六郷土手)



 
    無残なる都市河川


 二ケ領用水と共に掘られ、城南の地を潤し、発展に寄与してきた六郷用水も、ドブ川と化してしまった。

 筆者の通学途中の厚木・海老名といった郊外には、未だ広大な農地が残り、用水が廻らされている。のどかで美しい風景だが、いずれ六郷用水のように、都市化の波によって消え去ってしまうのだろうか。歴史は一瞬にして崩れ去ってしまう……。

 今、ドブ川としての存在意義さえも奪われようとしている河川を、私たちはもはや守ることはできないのだろうか。

 何事も便利な都市であるが故に、河川に見る時代の色は、あまりに暗く、無残に思えてならない。



   多摩川台公園


 本誌5号の表紙にも登場した多摩川台公園。こちらは山全体が公園になっているという感じ。野鳥のさえずりを聞きながら、ちょっとした山歩きができる。

 頂上に登れば、浅間神社・国史跡の亀甲山古墳・運動場などもある。バドミントン程度のスポーツならバッチリ!

 春ならば桜、多摩川を見降ろせ、家族連れでも楽しめる、都会のオアシスといえよう。
                (多摩川園駅下車・徒歩4分)


    小泉次太夫と用水

 16世紀末、徳川家康が江戸に入府。幕府の力を養うために、田畑の整備に力を入れた。そこで用水奉行に任命されたのが小泉次太夫・・・早速、六郷用水と二ケ領用水の采配にあたった。

 時に1597年(慶長元年)、以来15年間、両用水を交互に掘って、難工事は終った。領民もよく働いた。完成後には収穫が飛躍的に増加したという。以来、次太夫の名は、「次太夫堀」として後世に残っている。


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