編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
編集:岩田忠利      NO.141 2014.8.01 掲載 

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河川
二ヶ領用水
                                                

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和58年11月1日発行本誌No.19 号名「柿」

   執筆:一色隆徳
(祐天寺・大学生)  絵:山影昌子(妙蓮寺・中学生)


 
    川崎の田畑を潤す


 東京と神奈川を割って流れる多摩川。その両岸、今でこそ宅地化して、ゴミゴミとした都会の一部になっているが、太古より肥沃な稲作地帯だった…と書けば誰しも疑わないだろう。ところが土地より多摩川の川底が低いために、多摩川からの水を得るのは困難だった。

 16世紀終りに徳川家康が江戸入府するや、近郊の水田開発を命じた。ここに小泉次太夫という役人が、多摩川両岸に用水を掘ることを進言した。

 かくして着工されたのが、東京側の「六郷用水」と川崎の「稲毛・川崎二ケ領用水」なのだ。

     自然が残る上流部


 多摩川を遡ってゆくと、登戸と中野島に堰がある。これらが二ケ領用水の取水点だ。
しかし、年々進む都市化による農地の激減は両水門を閉ざし、もはや多摩川の水が流れ込むことはない。

 ともあれ、陽光のもと、のどかな上河原堰堤から二ケ領用水をたどる。水門が閉ざされているので流れがない。流れが見られるのは、南武線と交差してからで、他の河川が流れ込んでいるからだ。

 昔ながらの土手の下に流れる用水を見ながら歩く。両岸に木々が繁り、田畑がまだ残るこの辺りののどかさは、見る者を楽しませる。
 仕事の合間に糸を垂れている人がいる。子供たちが水に入ってザリガニを捕っている。フナやクチポソもいるという。まだまだ自然は健在だ。
 何やら水上ではしゃぐ物がある。見れば犬…。飼主の渡辺さんに訊けば、ネズミを追っているのだという。以前は畑でモグラを掘っでいたのだが、川でネズミを捕えたのが病みつきになったという。この辺りの名物犬らしい。

 小田急線を渡り、遊園地へ行くモノレールと並行する。久地の駅前で登戸からの用水と合流し、この先で平瀬川とぶつかる。かつては立体交差していたはずだが、今では「魚の棲める水」は全て平瀬川に落とされてしまう。

 平瀬川を渡ると円筒分水がある。これは用水を四方の村々へ均等に送るために造られたもので、以前は水の争奪戦が絶えずくり広げられたという。



中野島の取水堰



魚捕りで遊ぶ子どもたち



登戸の取水堰


久地の円筒分水


      息を止めた用水


 二ケ領用水は家庭排水を集め、完全なドブ川となって、田園都市線をくぐる。農地も全く無く、ただ住宅の建ち並ぶ中を、コンクリートで固められた排水溝≠ニして流れ、やがて東横線に近づく。かつての小泉次太夫の陣屋(工事監督所)の付近が、今も「小杉陣屋町」として残る。

 水は、排水路として掘られた渋川に落とされ、二ケ領用水はまた流れを失う。さらに、幸区平間で「小田用水」「大師用水」を分ける。

 古くは新田開発の切り札として、掘られ、良水として飲用にされ、近年では工業用水として川崎の発展を支えてきたこの用水も、わずかな流れさえもここで下水道に落とされてしまう。

 用水は水を完全に失い、空堀となり、埋められて遊歩道となり、やがて再び多摩川へ還ってゆく。

 沿岸の住民は口をそろえて「臭い、汚い、埋めてしまえ」と言う。

 もはや汚水のはけ口としか存在できなくなってしまったのは悲しいことであるし、先人が15年もの歳月をかけて残した財産≠ェ、失われるのは、余りに惜しくてならない。



田園都市線と二ヶ領用水(溝の口)



東横線二ヶ領用水






渋川排水路の水門




新幹線と二ヶ領用水(市ノ坪、苅宿)


再び多摩川に注ぐ(幸区古市場)
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