編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
編集:岩田忠利      NO.140 2014.8.01 掲載 

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歴史
    目黒川
                                                 

 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


 
掲載記事:昭和58年11月1日発行本誌No.19 号名「柿」
 執筆:一色隆徳
(祐天寺・大学生)  絵:山影昌子(妙蓮寺・中学生)/中岡奈津美(妙蓮寺・中学生) 


  
執筆者プロフィール

   一色隆徳(目黒区中町在住)

 高校3年のとき、友人宅の応接間でふと手にしたのが沿線住民手作り雑誌『とうよこ沿線』との出合いだったとか。大学受験に合格すると同時に日吉の編集室のドアーをノックして仲間に。

 当時の編集室には小学生から大学生までの学生たちが雑誌作りへの好奇心と未知の社会活動への憧れからなのか、男女20名ほどがいて、一色さんは「学生部」初代部長サンでした。人の立場を思い遣る優しさ・世話好き・強い責任感がそうさせたのでしょう。

 「沿線の河川」連載も彼みずからの企画で提案。それも源流から河口まで取材して踏破するという途轍もない広大な舞台。このたび復刻版を編集しながら私は改めて当時まだ10代だったはずの一色さんの並はずれた行動力に心から敬服しているしだいです。

 いま30年も前のことで思い出すのは、編集室1階の“急造一色暗室”。彼は「沿線の河川」で撮りためた写真を現像・焼き付け・引き延ばし、すべてここで作業しその写真を編集に使っていました。貧乏編集室の経費削減になれば、との一色さんの心遣いからすべて自費で賄ってくださっていました。

 そんな一色さんももう50代の東京都民銀行の銀行マン、一男一女のパパです。
(岩田忠利)


 
太古の時代より、河川は私たち人類の生活に不可欠なものとして流れ続けてきた。飲料水を始め、漁、洗濯、農工業用水等、その用途は実に多様……。

 東横沿線にも20近くもの河川・用水があるが、普段は気にもとめられていないものも多い。これら河川・用水をたどり歩き、その存在を実感しよう……いうことで、即、中学生5人、大学生2人の取材チームが編成された。

 初回は猛暑の中、目黒川に挑戦!




 
   7.8`の目黒川とは・・・


 東横線の上り電車に乗って中目黒駅を過ぎると鉄橋を渡る。その下ののどかな流れ――それが目黒川。

 玉川上水の分流の烏山用水と三鷹用水が合流、同じく分流の北沢用水を世田谷区池尻で合わせ、目黒川となる。

 流れは目黒区を通って品川区で東京湾に注ぐ。かつての清流も都市化の波に逆らえず、ドブ川と化してしまった。



東横線と目黒川


    河口から目黒区へ


 目黒川の河口――品川・天王洲の芝浦運河・・・。小舟が揺らぎ、よどんだ水には無数のゴミが浮き、なんともわびしい光景。
 200bほど上流に歩くと橋がある。昔、目黒川はここで北に折れて流れていたという。現河口は人工のものだ。

 埋めたてられて道路になった旧流を下る。と、前方に漁港が出現・・・釣舟(千葉方面へ向かう)が所狭しと並んでいる。旧河口は完全な姿で残っているのだ。妙に懐かしさを覚える風景だ。

 ふと水面を見てビックリ! 30a級の魚が群をなして泳いでいるのだ。
 まるで我々を歓迎しているかのように泳ぎ、はねる魚たちを見ていると、海や川の本来の姿に出合ったような気がして、つい嬉しくなってしまった。

 しかし、川に沿って歩こうなどとは酷な企画だ。先は長いが、旧東海道の茶店で一休み。往時の宿場町も商店と姿を変えたが、賑わっているようだ。

 冷房の効いた店を出て、歩き出す。沿岸に立ち並ぶ工場群を横目にのんびり歩く。汗のにじんだシャツを脱ぎ捨てたい衝動を抑え、五反田の柳並木の下を歩いていると、ほんのりと風……。枝が揺れて、少しだけ涼しい気分に浸ることができた。これが秋風ならばもっと風情があるのだろうが……。



現在の河口



旧河口

 
  目蒲線から東横線へ


 
目蒲線の寂れた電車が鉄橋を渡ってゆく。鉄橋の向こうには、かつて石積みで造られた太鼓橋。今は鉄製のその橋を、人々はみな足早に渡ってゆく。

 目黒通りを渡り、目黒区民センターを通り抜ける。プールでは子供たちが水と戯れていた。暑さにうんざりしている我々は大いにうらやんだ、と同時に、昔はこのような光景が水辺に見られただろう、などと想像してみる。い つの日かまた、という夢を抱いて……。

 しばらく歩くと川幅が広くなっている所がある。戦前、住民の要望で作られた舟着場の跡らしい。水深が足りなかったため、ほとんど使われなかったという話も、今となってはおかしい。

 駒沢通りを渡ると、我らの東横線が見えてくる。銀色の電車が陽射しに光る。支流の蛇崩川(じゃくずれがわ)が合流。この辺り、都内でも有数の氾濫地帯。高架をくぐり、桜並木の下を歩く。春ともなれば、沿線でも有数の花見の名所に……。



旧船着場の風景



目黒川の起点



昭和57年9月の大水

並木の外側は道路

 
  上流――川でなくなった川


 
品川・目黒と歩いてきたが、世田谷に入ると急に流れは細くなる。相変らず水は汚いが水辺にほ蝶が数羽舞っている。人は川を見捨てた。しかし、他の生物たちはなお、水に親しみにやってくる。今や人は大切な何かを忘れてしまったのか――ふと淋しくなった。

 やがて川は二手に分かれる。目黒川の起点に着いたのだ。
 左は烏山用水、右は北沢用水。どちらもこの先は暗渠化され、遊歩道となっている。
 買物の主婦たちが話しながら行く。ベンチには老人たちが。子供たちが駆け抜ける。地元の人々の憩の場になっている。しかし、流れのない川、川でなくなった川の姿はひどく空しい。

 両用水、さらに三鷹用水は環八辺りで再び川の姿を取り戻すが、次第に細くなってゆき、ついには道路や住宅の中へ消えてしまう。

 昔、農民たちが多大な苦労をかけて造った用水も、今ではただの排水溝というのみの存在になってしまった。


 
   遊び、親しめる目黒川に



 
古来より河川の氾濫は常識となっている。目黒川も例にもれず、何度となく沿岸に襲いかかった。度重なる改修工事も、その効果は微々たるもので、昨年9月の豪雨では溢れた水が中目黒駅の階段まで達したほどのもの凄さ。このため、都では『激特区間』として、大々的改修に乗りだした。


 また、環境の向上を図ろうと、目黒川浄化対策連合(世田谷・目黒・品川)や地元の 「目黒川を豊かな生活環境にする会(柳沢八郎会長)」「目黒川の自然環境をとりもどす会」などが中心に、浄化・治水対策に取り組んでいる。

 かつて水質が都内ワースト2位であった目黒川も今や22位。多摩川や隅田川に匹敵するほどにまでなった。

 昔のように泳ぎ、魚が釣れるまでにはまだ程遠いが、それでも、大雨の翌日に魚の大群が遡上したという新聞記事を読んだことがある。
 遊び、親しめる目黒川が帰ってくるのも夢ではなくなった。


 『沿線の河川』と題して、初回は目黒川をたどり歩いた。
 かつての清流も都市河川の例にもれず死の川となってしまった。年々浄化されてはいるが、川としての姿を忘れられ、排水溝同然に扱われているのは何とも淋しい。親しまれるどころか、「汚いから」「臭いから」という理由で、ひとつ、またひとつと川が失われてゆく。その損失は測り知れない。


 今回の取材に参加した 『えんせんっ子』諸君も、暑さにも負けずに歩き、流れの中に何かを見出したようだ。

 季節はうつろい、秋。やがては冬がやってくる。目黒川も時と共にゆっくりと流れ続けるだろう。



遊歩道となった北沢用水


いつの日か清流を!


目黒川沿いで作られたわが国最初の切手

 日本初の切手と目黒川

 明治4年(1871年)、わが国初の郵便切手は「48文」「100文」「200文」「500文」の4種が発行された。

 当時、和紙は強靭の美濃紙や土佐紙などで、ハサミでなければ切り取れなかった。そこで、手で切り取れる紙が無いかと比較研究したところ、目黒川沿い(太鼓橋付近)で作られる紙が最適とわかった。

 早速これを用いてわが国最初の切手が作られた。その後、洋紙の普及によって、業者も移転していった。
(目黒郷土研究会発行の会誌参考)

(協力〉 
 目黒川を豊かな生活環境にする会   柳沢八部氏

 目黒区役所(写真提供)

        ☆   ☆

(文) 数野慶久 桑原芳哉 
    福井章子 吉野嘉高

(文・絵)  山影昌子 中岡奈津美

(文・写真・構成)一色隆徳

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