目蒲線から東横線へ
目蒲線の寂れた電車が鉄橋を渡ってゆく。鉄橋の向こうには、かつて石積みで造られた太鼓橋。今は鉄製のその橋を、人々はみな足早に渡ってゆく。
目黒通りを渡り、目黒区民センターを通り抜ける。プールでは子供たちが水と戯れていた。暑さにうんざりしている我々は大いにうらやんだ、と同時に、昔はこのような光景が水辺に見られただろう、などと想像してみる。い つの日かまた、という夢を抱いて……。
しばらく歩くと川幅が広くなっている所がある。戦前、住民の要望で作られた舟着場の跡らしい。水深が足りなかったため、ほとんど使われなかったという話も、今となってはおかしい。
駒沢通りを渡ると、我らの東横線が見えてくる。銀色の電車が陽射しに光る。支流の蛇崩川(じゃくずれがわ)が合流。この辺り、都内でも有数の氾濫地帯。高架をくぐり、桜並木の下を歩く。春ともなれば、沿線でも有数の花見の名所に……。
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旧船着場の風景
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目黒川の起点

昭和57年9月の大水
並木の外側は道路 |
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上流――川でなくなった川
品川・目黒と歩いてきたが、世田谷に入ると急に流れは細くなる。相変らず水は汚いが水辺にほ蝶が数羽舞っている。人は川を見捨てた。しかし、他の生物たちはなお、水に親しみにやってくる。今や人は大切な何かを忘れてしまったのか――ふと淋しくなった。
やがて川は二手に分かれる。目黒川の起点に着いたのだ。
左は烏山用水、右は北沢用水。どちらもこの先は暗渠化され、遊歩道となっている。
買物の主婦たちが話しながら行く。ベンチには老人たちが。子供たちが駆け抜ける。地元の人々の憩の場になっている。しかし、流れのない川、川でなくなった川の姿はひどく空しい。
両用水、さらに三鷹用水は環八辺りで再び川の姿を取り戻すが、次第に細くなってゆき、ついには道路や住宅の中へ消えてしまう。
昔、農民たちが多大な苦労をかけて造った用水も、今ではただの排水溝というのみの存在になってしまった。
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遊び、親しめる目黒川に
古来より河川の氾濫は常識となっている。目黒川も例にもれず、何度となく沿岸に襲いかかった。度重なる改修工事も、その効果は微々たるもので、昨年9月の豪雨では溢れた水が中目黒駅の階段まで達したほどのもの凄さ。このため、都では『激特区間』として、大々的改修に乗りだした。
また、環境の向上を図ろうと、目黒川浄化対策連合(世田谷・目黒・品川)や地元の 「目黒川を豊かな生活環境にする会(柳沢八郎会長)」「目黒川の自然環境をとりもどす会」などが中心に、浄化・治水対策に取り組んでいる。
かつて水質が都内ワースト2位であった目黒川も今や22位。多摩川や隅田川に匹敵するほどにまでなった。
昔のように泳ぎ、魚が釣れるまでにはまだ程遠いが、それでも、大雨の翌日に魚の大群が遡上したという新聞記事を読んだことがある。
遊び、親しめる目黒川が帰ってくるのも夢ではなくなった。
『沿線の河川』と題して、初回は目黒川をたどり歩いた。
かつての清流も都市河川の例にもれず死の川となってしまった。年々浄化されてはいるが、川としての姿を忘れられ、排水溝同然に扱われているのは何とも淋しい。親しまれるどころか、「汚いから」「臭いから」という理由で、ひとつ、またひとつと川が失われてゆく。その損失は測り知れない。
今回の取材に参加した 『えんせんっ子』諸君も、暑さにも負けずに歩き、流れの中に何かを見出したようだ。
季節はうつろい、秋。やがては冬がやってくる。目黒川も時と共にゆっくりと流れ続けるだろう。
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遊歩道となった北沢用水 |

いつの日か清流を! |
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目黒川沿いで作られたわが国最初の切手 |
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日本初の切手と目黒川
明治4年(1871年)、わが国初の郵便切手は「48文」「100文」「200文」「500文」の4種が発行された。
当時、和紙は強靭の美濃紙や土佐紙などで、ハサミでなければ切り取れなかった。そこで、手で切り取れる紙が無いかと比較研究したところ、目黒川沿い(太鼓橋付近)で作られる紙が最適とわかった。
早速これを用いてわが国最初の切手が作られた。その後、洋紙の普及によって、業者も移転していった。
(目黒郷土研究会発行の会誌参考)
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(協力〉
目黒川を豊かな生活環境にする会 柳沢八部氏
目黒区役所(写真提供)
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(文) 数野慶久 桑原芳哉
福井章子 吉野嘉高
(文・絵) 山影昌子 中岡奈津美
(文・写真・構成)一色隆徳
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