編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利      NO.138 2014.730 掲載 

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歴史
 
桜木町U 最終回

 
                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   
  掲載記事:昭和59年10月1日発行NO.24 号名「椎」
      執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:一柳 幸(祐天寺)


   本牧のチャブ屋再訪


 終戦後、もう一度本牧へ行った。今度は、チャプ屋のB社長に会いに行ったのだった。物凄い吹き降りの夜だった。銀座の西銀座ビルのS社長が私を連れて行ってくれたのだった。

 戦争が終わり、私が余生を電子計算機の研究に捧げようと思っていると言うと、S社長は、戦前の日本IBM社長だった水晶浩氏を紹介してくれた。すぐ水晶さんに会いに行くと、とりあえず桜木町の第8軍計算センターの修理主任として採用された。しかし、アメリカの技師と話し合う必要があり、3か月で英会話をマスターするように言われてしまった。

 さっそくS社長に報告すると、しばらく考えたうえで、友人の英語の達者なチャブ屋の社長のところにやって来たのであった。





「鉄道創業の地」記念碑が建つ桜木町駅

    ダブルベッドに男二人


 さて、頼りにしてやって来た本牧であったが、チャブ屋のB社長は、
 「そういうお話なら、ここは向きません。Sさんのお話ですからお受けしたいのですが、この店は、男性は一切表面に出ないのです。アメリカ人が男を嫌うのです。ですから、私をはじめとして、男はみな裏方で、英語は日常全然使っていないんですよ……」
 ということだった。外の風雨はますます激しくなっていた。

 「今晩はもう遅いですから、一杯やって明朝お帰りになった方がよろしいですよ。いま用意させます。客はクルマで来ますが、ハイヤーはなかなか来てくれませんので……」
 B社長は私たちを空いている女の子の部屋に通し、ブランデーを持ってきてくれた。見るとダブルベッド一つしかない。
 いい歳をした男が一つのベッドに寝る。何とも奇妙なことになってしまった。S社長も意外な結果にテレくさいのか、ブランデーの力を借りて、妙に雄弁になった。
 「世の中、一生のうちには妙なことがあるものですよ」
 と言って、日比谷にあった設計事務所を弁護士の事務所と交換し、西銀座ビルを建てたいきさつを話していた。そのうちに二人とも酔いが回り、ネクタイだけをはずしてベッドにもぐりこんでしまった。


     「カサブランカ」で英会話独習


 結局、3か月間で英会話を自習しなければならなくなった。安易な方法がなくなったので勉強計画をたてた。午前中は学芸大学横の英会話個人教授の夫人の元に通い、午後は御茶の水の英会話塾に、夜はイヤホーンでWVTR(進駐軍向け放送)を聞きながら眠る。外国人の中にはいれなかったので、日本語の世界から脱出した生活にはいった。

 その頃、「カサブランカ」という映画がきた。イングリッド・バーグマンとハンフリー・ポガード主演の映画であった。同時に英文のシナリオが本屋に出た。さっそく買って、有楽町の邦楽座に回った。最上階のドアーの近くに立って、薄暗いドアーライトで、ボガードたちの会話を活字で追って驚いた。なんとそのスピードの速いこと、踏切で急行列車を見るようだ。いままで想像していたスピードの2倍以上である。「これは大変なことになった」と肝を冷やした。

 それでも、時日の経過とともに、英語が耳についてきたような気になってきた。東横線の電車の中の乗客の日本語の会話が「ハテ、どこの国の言葉だろう?」と本気で考えるようになり、思わずハッとして、ほくそ笑むようになった。


     二つの翻訳の仕事


 またたく間に3か月が過ぎ、無事に第8軍計算センターでの仕事が始まった。初めは電算機の故障を直すだけであったが、やがて、講和条約後発足する「日本IBM社」が扱う新型機の部厚い取扱説明書を水晶さんから手渡され、
 「新しく入社する日本人社員用にこれを翻訳してください。もちろん修理の合間に……」
 といわれた。もちろん、修理のない日もあるし、半日の時もあるので、机の上に広げてコツコツ翻訳にかかった。

 しかし、もう一つ新しい翻訳の仕事が意外なところから舞い込んできた。
 当時、朝鮮戦争が起こっていて、国内の米軍はすべて半島に出攻していた。そこで、ハマのオンリーは一人ぼっちになった。時々彼氏から手紙が来る。会話はできるが手紙は書けない。
 ある時、一通の和文の手紙の翻訳を頼まれてやった。すると、氷川神社のお札のような大きなチョコレートをお礼にくれた。その大きさに驚いたが、そのうちに2人、3人と依頼人がふえ、チョコレートの数もふえて、子どもにやると、当時は甘いものに飢えていたので、とても喜んだ。









南京街(中華街)の路地裏に美味い店がる


   南京街の、きたない店


 南京街は、青年の栄養補給源だった。きたない小さな店のラーメンの味は、ぴっくりする程うまい。中国各地を回った時も、3食とも中華料理であったが、全く飽きなかった。真の中華料理というのは、極めてあっさりした昧で、いくらでも口にはいる。学生時代南京街で食べた、あの味だった。

 東京の人は、南京街に来ると、テレビ・コマーシャルで有名な大きな料理店へ行って、豪華料理を食べて帰る。
しかし路地裏の油のしみついた小さい店で、カタコトの日本語(何年横浜で暮らしても、わざとカタコトらしく話す)で話すコック兼社長のサービスで作ってくれるラーメンを食べてみることをおすすめする。
 ここに南京街の真の味があるのである。


 懐かしの山下公園、氷川丸


 学生時代、休講が続くと よく山下公園から外人墓地のあたりを散策した。元町を含めて外人が多く、外国のムードが漂っていた。いまは殺風景なタワーなどがあり、豪華外国船の入港も減って、昔の面影はあまり感じられない。

 山下公園は、大きな公園の少ない当時の日本には貴重な存在であった。その公園の前に、氷川丸が美しい姿で繋留されている。
 氷川丸は、昭和5年に三菱造船所で造られ、同年5月に横浜〜シヤトル間の定期航路に就航した。そして太平洋戦争が勃発し海軍に徴用され、赤十字をつけた病院船になるまでに73回太平洋を渡った。その後は南方海上を回り、終戦時は舞鶴にドック入りしていた。

 戦後も復員船として太平洋の島々を回っていたが、再び改装されて貨客船となり、昭和28年、再度シアトル航路についた。そして46回の航海ののち、昭和35年引退し、日本郵船から横浜市に譲られ、山下公園前に永久繋留されたのである。



ミナト横浜の顔、氷川丸


   白瀬中尉のお嬢さんにお会いして


 本連載NO.16の「妙蓮寺編」で、白瀬中尉のことを書いたが、昨年1113日、新南極観測船「しらせ」出港の前日に晴海埠頭に行った。この日は乗組員家族招待日であったが、艦長にはお会いできなかった。

 その後しばらくして、目黒駅前のビルにお住まいの白瀬中尉のお嬢さんにお会いすることができた。92歳ということであったがとてもお元気であった。また、白瀬南極探険隊遺族会の会長である湯川さんともお話しすることができた。
 白瀬中尉のお嬢さんは、「しらせ」が南極に行くとなって、新聞社、テレビ局のインタビューの申し込みが殺到したものを全部断ったという。そんな中で、私だけに会ってくださったので、湯川さんも驚いていた。

 白瀬さんのお嬢さんは、
 「父はとても厳格な人で、子どもは畏敬して遠ざかっていました。妙蓮寺には父の家のすぐそばに妹の家がありましたので、よくあの丘を登りましたが、父の家には寄らずに帰ったこともありました。
 晩年の父は、経堂の家の仏間で、終日静かに読経三味の生活を送っておりました。私も父の血をひいたのか、このごろは、終日自分の居間で、読書や、テレビ、昔のアルバム、特に長かった聖心の教師時代の卒業生の名簿を見ることを楽しみにしております」


氷と闘う、新南極観測船「しらせ」

と、延々2時間、昔の旅行の話、自分の結婚のいきさつ、父の想い出など話してくださった。

 湯川さんにお願いすると、日本一周訓練航海を行う「しらせ」に乗船できるかもしれない。「しらせ」 に乗ったお話をしに、再び白瀬中尉のお嬢さんを訪ねる日を楽しみにして、目黒駅前のビルを後にした。帰り際に玄関で92歳のお嬢さんが、
 「私は、l00歳までは、必ず生きますから……」
 とお元気に笑顔で宣言された。


               ★☆★

 昭和567月、第6号榎から始まった連載も、今回で終了します。渋谷から桜木町まで、新横浜をふくめて一駅一駅やってきました。思い出もたくさんできました。

 「妙蓮寺編」で白瀬中尉のことを書いて以来、ほとんど南極病≠ノなってしまいました。「しらせ」乗船記など、また書いてみたいとも思っています。

 長いこと御愛読いただき、ありがとうございました。

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