編集支援:阿部匡宏
 編集:岩田忠利    NO.137 2014.7.29 掲載

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歴史
 
高島町・桜木町


                                                  

    沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


    
掲載記事:昭和59年7月1日発行NO.23 号名「桐」
    執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:一柳 幸(祐天寺)



   残念な「みなとみらい21」


 前号にも書いたように、高島町前から広がる三菱重工横浜造船所跡地を中心に、「みなとみらい21」という計画が進められている。計画ではこの造船所跡地が、全部公園になるというわけではないようである。


 もし、この造船所跡地が全部公園になれば、緑の大公園の中に日本丸の白帆が垣間見え、博物館や美術館、ティールームと、横浜人の憩の場となるであろうに。そして渋谷や原宿のように、ヤングやギャルの熱気あふれる街になるだろう、と考えると、この「MM21」、残念なところもある。



三菱重工横浜造船所跡地


    ハマの中心だった桜木町


 
この連載も渋谷駅から、鈍行のように、一駅一駅停車して、やっと桜木町駅終点までやってきた。567月、発車してから3年もかかった。東横線の電車なら、各駅停車でも46分、急行だと33分で桜木町に着くのに・・・。


 「桜木町」、ここは戦前横浜の中心街、伊勢佐木町、山下町、南京町、本牧、波止場・…‥どこへゆくにも、桜木町からはじまった。
 29空襲前の伊勢佐木町は、銀座とは違った異国ムードの漂ういい街だった。表通りは一流有名店が櫛比(しっぴ:クシの歯のように、隙間なく並んでいるさま)し、ショッピングをかねたそぞろ歩きは素敵だった。さらに、そのメインストリートに並行してかなり広い路があり、「親不孝通り」と愛称されていた。昼は見栄えのしない通りだが、ネオンが輝く頃ともなると、当時流行の「おでん屋」を中心にカフェ、バーなどが宝石箱のようにならび、お白粉と口紅の若い女が、流し目でお酌をしてくれる。われわれ若い学生にとっては、天国への道であった。


 オデオン座という、日本中に名の通った洋画封切館で「商船テナシティ」 「会議は踊る」などを見て、おでん屋の2階で痛飲して酔いつぶれると、学生は座ぶとんを敷いて店で寝かせてくれた。翌朝、二日酔いの身で階段を降り、彼女らの見送りをうけて学校へゆく気持ちは、維新の頃、品川の「土蔵相模」で飲んだ勤王の志士の朝帰りのような、よい気分であった。ほんとに、よき時代であった



  “ハマの早慶戦”とその夜


 学校の行事は、そのまま市のお祭のようで、高商と高工の野球の定期戦は、市の最大の年中行事であった。「浜の早慶戦」といわれ、一か月位前から、応援の練習がはじまり、全校がうきうきして、勉強も上の空であった。


 私は、昭和9年に横浜商工に入学した。そしてまもなく浜の早慶戦に一応援団員として参加した。横浜公園球場で、62日に第1回戦の幕は切って落とされた。
 1年生で何も分からなかったが、全市民を二分する熱気に興奮した。この時は、2対1で高工が勝った。4年間の連敗のあとの1勝は、3年生を狂喜させ、夜になるとザキ(伊勢佐木町の愛称)の夜の定期戦に連れてゆかれた。どこでいくら飲んでもタダだった。バンザーイを三唱すれば、それが支払いのサインだった。あるいは、よろこんだ先輩が払っていたのかもしれなかったが‥…・。


 翌10年、11年と続けてストレートで勝ったため、夜の定期戦は高商の憤怒で、ザキは険悪ムードに包まれていた。しかしわれわれ3年生は、下級生の手前、一歩も引けなかった。10人位の集団を組んでザキの歩道を進むと、柔剣道部の猛者を先導にした高商の集団がやってくる。やがて近づくとニラミ合いになり、ふとしたことから取っ組み合いの乱闘となる。厳戒の警察官は、片端から保護検束し、伊勢佐木署の留置場にほうり込んだ。
 巧みに逃れた連中は、興奮のまま、当時世界的に有名な本牧の「チャブ屋」まで歩いた。店は、海岸にあった。夕闇はすでに下り、黒い波がヒタヒタと打ち寄せていた。


   本牧の女性たち


 中央の大ホールの周囲に、吉原同様、女性たちの個室がホテルのように並んでいた。酔客(ほとんど外人)が、ここへくるのは10時過ぎだというので、彼女らはちょうど化粧をすませたところだった。われわれが朴歯の下駄を鳴らして乗り込むと、すでに放送で高工の勝利を知っていた彼女たちは、全員一斉に玄関に出てきた。私は唖然とした。こんな美しい女性を、いままで見たこともなかったからだ。友達の話では、当時の銀座の2倍以上の料金だという。ドル高の外人以外は、日本人はよほどの金持ちでなければ、ここでは遊べないということだった。それでも遊びに飽きた大金持ちは、東京で遊んだあと、ドライブをかねて踊りにくるという。彼女らは、これらの酔漢を「お上りさん」とよんでいた。


 ボーイの出してくれたスリッパに高下駄をはきかえさせられた後、ホールの周囲に置かれたテーブルに座らされ、お祝いのビールが出た。やがて、ホールの隅の電蓄からダンスミュージックが流れ出した。ミラーボールが回転し、七彩の光が稲妻のように瞬きはじめた。彼女たちもスリッパであったが、踊ろうという。みんな勝利の美酒に陶然と酔っていた。窓には、ヨコハマへ出入りする汽船の灯が、ゆっくりと動いている。頬をなでる初夏の潮風は心地よい。

定期戦の勝利というものが、こんなに夢のようなものであるとは、2年生の時には考えもしなかった。


 やがて彼女たちは、われわれを一人ずつ、彼女らの個室に招じ入れてくれた。広さは6畳くらいであったが、床はペルシャ絨毯で、大きな三面鏡台、電気冷蔵庫(当時日本では珍しかった)もあり、横文字のビンからスプーンですくって、コーヒーを入れてくれた。私は浦島太郎になり、乙姫様の前にいるような気がした。コーヒーを飲みながら彼女はニッコリ笑った。その美しいこと、これでは、世界の港を股にかけている外国船の高級船員も、彼女にはイチコロだと思った。彼女の出身は千葉県だといった。全関東から超一級の美女を集めてくる経営者も大変だと思ったりした。


 ここの女は、勤務時間外は自由で、神宮へ野球見物に行ったり、銀ブラをしたり、洋画を見にどこまでも行ったりすると、朗らかに話していたが、ご令嬢のそれとは違う妖しいなまめかしさは隠せなかった。
 10時を過ぎると、「そろそろ客がくるから……」といって、部屋から出て、波打際から海に張り出した長い桟橋を歩いた。右にも左にも波が騒ぎ、見上げた空は、満天の星だった。



往時の面影もない福富町仲通り

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