編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利      NO.136 2014.7.29 掲載 

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歴史
      横浜
                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和59年5月1日発行NO.22 号名「槇」
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


  時代とともに変貌する横浜駅



      2月26日、雪の朝

 

昭和9年から12年まで、私は代官山駅から横浜駅まで毎日通った。ここで京浜電鉄(現在の京浜急行)に乗り換え、弘明寺駅で下車、急坂を一気に駆け下りて教室へ飛込んだ。

横浜までの京浜電鉄と、黄金町からの湘南電鉄の線路が結ばれ、直通運転が始まったのは昭和8年のことである。電車は窓が大きく軽快な感じで、当時の世相とは逆に明るい雰囲気をもっていた。
 昭和11年2月26日の朝は雪が降っていた。いつもの通り横浜駅のホームに降り立つと、見下ろす風景は白一色で、シーンと静まりかえっていた。人々の顔も陰気で無口だった。今考ると、電車から降りた人々の中には、その雪の夜に起こった現役軍人の反乱を、うすうす感づいていた人も混っていたような気がする。

学校に着いて3階の製図室へ上ると、もう同級生は深刻な顔をして、ひそひとと額を集めていた。昭和7年の5・15事件以来、不穏な青年将校のクーデターがいつか起こるであろうと、我々は肌で感じていたのである。



           駅前広場の砂利の山


当時の横浜駅西口は殺風景な広場で、東横線のホームからは.砂利の山があちこちに見えた。横浜市の建物に必要な砂利を相模川から運ぶため、神中鉄道(現在の相模鉄道)がつくられ、小さな機関車が砂利を満載した貨車をたくさん引張ってやって来ていた。

現在の南武線も、多摩川流域の砂利を川崎へ運ぶためにつくられたものだし、二子玉川と渋谷を結んでいた玉川電車も砂利運搬が主任務で、今はハチ公が立っているあの広場も、砂利の山また山だった。東横線も同様で、東横水郷ができるほど砂利を掘り、小さな電気機関車が、東京、横浜へ運んでいた。




筆者が通学に利用した湘南電鉄(当時の姿)。
現在は四国の琴平電鉄で活躍中






       戦後のヨコハマと西口


 

B29によって焼かれたヨコハマは、戦後その中心部を広範囲にわたり米軍に占領され、旧市民は市の外縁部に締め出された。そこは弘明寺、反町、白楽などの地域である。そのため、かつての日本有数の繁華街イセザキ町は、住民不在の町となり、商業活動は停止してしまった。

 一方、新しい人口密集地帯を背景にした横浜駅西口は、市民の精力のはけ口を見つけたように、触発的に発展していった。その発火点となったのは、高島屋デパートとダイヤモンド地下街である。かつての砂利の山を見ながら今日の大繁華街の出現を予測した人は皆無だった。



        東西を結ぶフリーウェイ


西口の発展に限界がきた頃、国鉄の大赤字に国民の非難が集中しはじめ、各地で駅ビルの建設が盛んになった。

横浜駅もこの波に乗って東口に大駅ビルを建てることになり、西口の客を東口に誘引するため、それまで駅構内の通路であった地下道を大拡幅し、しかもフリーウェイにするという大英断を打ち出した。

 昭和5611月、横浜駅の歴史を展示した「横浜駅自由通路落成記念展」が高島屋で催された。
テレビで放映された「日本最後の赤帽さん」に会いたくて、さっそく行ってみた。




昭和3年に完成した横浜駅東口の旧駅舎
正面の大時計は現在横浜市電保存館に



会場の入口では、駅長さんが直々に記念切符を販売していた。会場を一巡したが赤帽きんが見当たらないので、駅長さんに尋ねてみることにした。

 「さっきまでこのあたりにいたんですが‥…。すぐに戻って来ますよ」というので、記念切符を買って駅長と話を始めた。

 ニコニコ笑う気さくな駅長さんは、昭和3年につくられた駅舎が明るい新駅ビルに生まれ変わったことが、心からうれしそうであった。記念切符の図案の苦心談などを聴いているうちに、制服をキチッと着た赤帽さんが帰ってきた。


         この道50年の赤帽さん


  

駅長に紹介きれ、近くの椅子に腰掛けたが.赤帽きんのようすがどうもおかしい。ブスッとした顔でソッポを向いたままなのである。

「駅長さんにお願いしたんですが、何か赤帽生活50年のお話をしていただけませんか……」

いくら頼んでも、時々ジロッとポータブル・テレコを見るだけで、ソッポを向いたままである。

しばらくしてから、ボソボソと怒りを込めて語り始めた。

 「何もしゃべれません。しゃべれないんです…」

 こんどの駅の新築を機に、家族一同が『もうおじいちゃん、ひき時ですよ』と言うもんだから、駅長さんにお話して円満退職したんです。この展覧会には制服で手伝ってもらいたいと駅長さんに頼まれて、初日から出てきています。それからというもの、テレビや週刊誌の人が、家の方まで押しかけてきたんです。家族も喜んで、私の長い赤帽生活の苦心談を話しました。
 ところが、放映になった画面を見ると、家族の接肋によって50年も勤めてきた神聖な仕事を、まるで変人扱いで写し出したんです。これではサーカスのピエロですよ。50年、ただひたすらお客様のためにと、若者たちの軽蔑の視線を無視して、真剣に歩んできたこの私を……。

家族も楽しみにして放映を見ましたが、ピエロのような扱いに怒り出して、『おじいちゃん、もう絶対にマスコミにしゃべるんじゃないよ。あんたは人がいいんだから、マスコミに馬鹿にされるだけだよ。絶対にしゃべるんじゃないよ!』と言われてるんで、何もお話しできません」

そう言って振り切るように会場を出ていってしまった。

 こういうマジメな人を取材するとき、マスコミの担当者はよくよくの気配りをしてもらいたい。
 私は何も取材できなかったが、この混濁した世の中に、ダイヤモンドのように輝く稀有の人物に会えて、きょうはとても良い取材をしたと思って帰った。


         みなとみらい21


東口に「ポルタ」、「ルミネ」 が輝くように開店すると、妙なもので、西口が急に古めかしく手狭に見えてきた。
  これではならじと、西口も大改装を行なうなど、横浜駅を中心とする商戦は、華々しいものとなってきた。

 海の方に目を向けると、三菱重工の移転跡地に、新しい横浜の中心を作ろうという計画がある。名付けて 「みなとみらい21」(MM21)。新たな埋立地を加えた186ヘクタールの広大な敷地には、オフィス街のほか、文化ホール、海浜公園などができ、待望の日本丸の保存も決定している。

西口の奇跡の発展は、幅36メートルのフリーウェイを吹き抜けて、「ポルタ」、「ルミネ」と花開き、さらに余勢をかって後背地に「MM21」計画が実施される。これが実現すると、横浜駅西口から東口、美術館、文化ホール、日本丸、博物館を経て、山下公園、氷川丸、港の見える丘公園、中華街、横浜スタジアム、伊勢佐木町、桜木町、という一大回遊プロムナードができあがる。

私は渋谷の生まれで、あの寂しかった区役所通り(公園通り)、2・26事件の将校した衛成監獄のあった代々木練兵場(代々木公園)、唯々静かであった原宿界隈が爆発的に発展し、鰯の大群のようなすさまじいヤングの群れに埋められた経緯をつぶさに見てきた。

いわば官製の「MM21」も、ヤングに嫌われない街になってもらいたいと、寒風吹き荒らぶ広涼たる敷地を見て、つくづく思った。



幅36メートルの横浜駅自由通路
MM21へ向けての大プロムナードになる予定












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