編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利     NO.127 2014.7.26 掲載 
歴史
綱島
                                                  

 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”

   
掲載記事:昭和58年5月1日発行本誌No.16 号名「柏」
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台・画家)

 

 
軍部の強制買収の綱島公園


 日吉駅を過ぎると、東側の綱島街道には大きな建物が目立つ。日吉学生ハイツ、日立、松下通信工業、リーダー電子など。やがて西側に大きな綱島公園が見えてくる。

 この公園は7千平方米もあり、山あり谷あり古寺(長福寺、陽林寺)あり、プール、テニスコート、児童遊具等があり、自然を生かした理想的な公園である。


 この公園は、もとは綱島の大地主池谷光朗家などの土地であったが、戦時中この山に高射砲陣地を造るために、防空公園という名目で、わずかの金額とひきかえに市に強制買収されたものである。当時これに応じない地主には憲兵がピストルをつきつけて、応じるまで帰されなかったという。これが戦後はそのまま市の公園となったのである。

 


坂下から綱島公園を望む



  
モダンな街の出現


 
綱島駅西口から鶴見川まで歩いた。横断したバス道路は旧態のままなのでその渋滞はすさまじい。いまさら拡幅はできないから、バイパスをつくる必要があろう。県がそれを怠っているために、バス通りの裏が大発展してしまう。

 鶴見川とバス通りの間の温泉旅館街はほとんどが姿を消し、そこには巨大なマンション群が林立し、間にイトーヨーカドーのような大スーパーができ、その周囲には広場(スペース)がとってあり、理想的な生活環境を形成していた。ゴミゴミしたバス通り商店街のすぐ裏に、こんなモダンな街ができあがっていたのには驚いた。

  東京園はヘルスセンターのはしり


 
昔はここの温泉街は大変有名で、戦後もここにできた大温泉会館はヘルスセンターのはしりで、民謡ブームの火つけ役となった。

 長い大戦で娯楽に飢えていた中年婦人がドッと押しかけ、殺人的盛況を呈し、民謡の大好きな青年・三橋美智也が、ボイラーマンとして働きながらマイクを握って修業したという有名を話がある。

 そこは今も東京園として存在し、たった350円で、温泉に入ったり飲んだり食べたり歌ったりと、一日楽しむことができる。私のオヤジも綱島が好きだったので、代々木上原の東大航空研究所の前に上原温泉≠ェ開業されたが、場所が悪く、客が少なかった。その建物は、今では銭湯とマンションになっているが、その後地下鉄千代田線が通り、マンション経営の方が盛業である。

  
台風に弱い鶴見川


 
ただ問題なのは、鶴見川である。普段は広い河原の中央を細々と水が流れているが、最近では、集中豪雨の場合の増水の水位が目にみえて上昇してきている。

 この川は、南多摩郡忠生村を源として、東京湾に注いでいるのであるが、江戸時代以来、水害の多い川で有名であった。が、いま見られるような大堤防ができてからは、台風にもビクともしなかった。しかし近年、上流地域の宅地開発が過熱し、樹木は伐採され、道路はコンクリート化し、蓄水能力が急激に下降したため、大雨はそのまま鶴見川に流入するようになった。


 昨年の豪雨では、堤防の一番上のブロックのところまで水がきて、対岸の自動車教習所にあった2台のバスが完全に見えなくなってしまったという。あと水位が30センチ上ったら、水は堤防を越える。
 一度堤防を越えた水はコンクリートブロックの裏側の土を流し、たちまち堤防は決壊する。しかも、この堤防の頂上から見ると、前記したイトーヨーカドーを中心とした明るい住区は、一度に2階まで濁流に冒されるおそれがある。
 川原では今、川幅を広げ川底を深くするための工事が行われている。が、この程度のことで大丈夫かと危惧の念を抱いたのは私一人ではなかったようだった。

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