小林翁の話「戦前・戦後の小杉界隈」
小林家では、父上は銀行員で、養蚕もやっており、いまの南武線の向かい側や、等々力緑地の方の桑畑に桑摘みに行ったという。そのため自分もご子息も、農大を出られている。祖父は、どうしても農馬をうまく扱えなかったので、農業をあきらめ、村役場に入り、のち村長になった。
そもそも、現在の南武線は、奥多摩の石灰石を、川崎の浅野セメントに運ぶためにできたのだった。いまの 「武蔵小杉」駅は「グラウンド前」駅と呼んでいた。
「東横線の方が先に走っていたのですが、南武線が先に走ることになっていたので、東横線が上を走ることになったのです。高架といっても、いまのようにコンクリート造りではなく、土盛りだったので、地上で幅が広くなる分だけ、土地を買収したものでした」
「多摩川の堤防工事が完成すると、川の中の砂利取りは、堤防の保安上、禁止されました。堤防の外の、いまの東横水郷のあたりの表土を取り去り、下の砂利を採掘することになったのですが、これが大工事になりました。そのために東横電鉄の独占となって、ずいぶん大きな穴があちこちにでき、電鉄では、魚を放って『東横水郷』という釣り堀にしました。以前は1号から5号までも大きい池がありましたが、その後次第に埋めたてられ、いまは一つになってしまいました」
「戦争がはげしくなると、徴用されるよりは、というので、この辺の人は富士通や日本電気に入りました。そして、長年勤めて退職金を貰うと、みんなアパートを建て、会社の寮に。会社の方も、元従業員のアパートを優先して、寮に借りたようです」
「この辺の百姓は“コイかつぎ”といって、天秤棒の両端に肥桶をつるしてかつぎ、東京までゆきました。馬にコイ桶をつけてゆくのを“馬ゴイ”、舟で河口から芝浦の増上寺までゆくのを“舟ゴイ”。行きには、年貢や野菜を積んでゆき、帰りには人糞を持ち帰ったのです」
小林翁の話は、淡々と尽きない。翁とオコタを囲んで話をしていると、歴史のカタマリと話をしているような気分になってしまう。広いお庭に、夕日も赤くなったので、歴史の館を辞去することにした。
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