編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利          NO.124 2014.7.24 掲載  

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歴史
 駅開業が東横線で最も新しい

    武蔵小杉

                                                 

      沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   
掲載記事:昭和57年7月1日発行本誌No.12」及び昭和57年10月1日発行NO.13 
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


  ホームの長い武蔵小杉駅

 昭和1612月8日、大東亜戦争(または太平洋戦争)に突入。小杉地区にはつぎつぎと軍需工場が建設された。その頃は新丸子の次の駅に「工業都市」という駅ができ、朝晩、大勢の産業戦士を呑吐していた。

 しかし、南武線の「武蔵小杉駅」と東横線の「工業都市駅」との間が遠く離れ、乗り換えが不便だった。それを軍需工場協会の陳情によって、南武線と東横線の交差地点に連絡駅である東横線「武蔵小杉駅」を誕生させたのだった。だが、「武蔵小杉」と「工業都市」両駅が余りにも近距離なため、昭和28年に「工業都市駅」を廃止し、武蔵小杉駅一つに統合した。だから、この駅のホームはどこの駅よりも長いのである。

 駅のすぐ東脇に「東京機械製作所」の大きな工場が見える。この会社は芝の三田にあり、以前「三田製作所」といって、私の父も勤めていたことがある。高速輪転印刷機の日本のトップメーカーである。戦争中からは、工作機械にも進出し、ここのターレットレースは当時引っ張りだこだった。そのうしろには「不二サッシ」「日本電気」など大工場が続く。


   川崎の“ヘソ”

 
終戦後は一時まったく閉塞した大工場も、昭和25年から3年間続いた朝鮮戦争により、完全に息を吹き返した。失業者が街にあふれていた日本は、急に労働力不足、金のタマゴ時代≠ノ。
 

 ここ武蔵小杉周辺も、再び人波に埋まっていった。街は活気づき、駅付近には小杉会館、サンコー、東急ストア、聖マリアンナ東棟病院、中小企業婦人会館などが続々と建ち並ぶ。また、小杉は地理的にも細く長い地形の川崎市のちょうど中心で、川崎のへソ≠ニしての重要な役割を果たし、市のイニシアチプをとるようになった。

 駅前広場からは10系統のバスが間断なく発着。そのロータリーの中心に「ほしか屋」野村文左衛門がつくった“八百八橋”の一つが再建されている。このことは、NO.118 の 祐天寺編で詳述したのでここでは説明を省く。伊豆の小松石を取り寄せて造った立派なものである。御一見を乞う。



 駅前広場に再現した石橋の「八百八橋」の一つと石碑

   川崎市重要史跡の常楽寺

 
武蔵小杉駅から府中街道を溝の口方面へゆくと「等々力緑地」がある。その少し先に「常楽寺」の森が見える。別名「まんが寺」として有名である。
春日山医王院常楽寺、というのが本名。中御門右大臣宗忠日記によると、いまから800年前(1159年)宮中の御願寺であった。本尊は聖観世音。

 土岐秀宥(ときしゅうゆう)和尚は、質実剛健にしてユ−モアを解する一人物(いちにんぶつ)。

 寺で居住する和尚は来客の応対のときは一年中素足でシャツとズボン。ズボン通しにはバンドでなく、紐がくくり付けてあるのがトレードマーク。ときにはどちらも無いときも。そんなときの起居振る舞いは奇妙である。ズボンがずり落ちそうになると、左手でひょいと引き上げるのだが、ときにはそれが間に合わず臀部(でんぶ)丸出しなんて光景もしばしば。この和尚は、宝物殿という言葉が大嫌いで、物を仏に変えていると、のたまう。

 余談に走ったが、この宝仏殿には薬師如来日光月光十二神将など多数の文化財が保存され川崎市重要史跡に、そして美しい森は市の天然記念物に指定きれている。



緑に包まれた「まんが寺」

   川崎市職員だった土岐住職と漫画家たち

 
昭和19年4月、川崎市では、市電を臨海工業地帯に延伸するのに、労働力がなかった。そこで当時の漫画家奉公会員35名が、手島一刀隊長のもとで勤労奉仕に出た。
 その市側の世話は、当時市の青少年係をしていた土岐和尚であった。天性の世話好きの氏は、3日間の奉仕の最終日の夜、市内の肉屋の2階で慰労会を開いた。
 
ろくに食物の無かった時代、空きっ腹に肉と焼酎、一同たちまち金時の火事見舞のよう。「何か描こうや」、と誰かが言い出した。と同時に、もう我も我もと、肉屋の襖(ふすま)に漫画を描き出した。
 途中で女中が寄ってきて、びっくり仰天。「あーら、まぁ.ご主人に叱られるに……」 と、階段を転がるように降りていった。金時連中はもう夢中……。やがて、やってきた主人は「おや、まぁ、これは、これは……」 と、満面の笑み。
 この一部始終を見ていた土岐和尚は 「自分もいつか、こんなものをつくってみたい」、と漫画の説教力に魅せられてしまったという。これが縁となって、和尚は大勢の漫画家と知り合うようになった。



   今や“
客千来”の、まんが寺

 
昭和41年、元禄初期に再建された本堂を解体修復する段になると、和尚はたくさんの杉戸と襖に「明治百年漫画風物詩」、本寺宗祖「弘法大師絵伝記」を描いてもらうことにした。
 これには、檀家の役員から「こともあろうに、ご先祖さまをまつる本堂に漫画とは何だ!」と反対があった。がそこは、お説教が本業の快僧、なんとか説諭、役員もしぶしぶ賛成。

漫画家は、1人1作主義で74人。「戦後二十年史」「童心の間」「明治編」につづいて「大正編」「昭和編」と完成していった。
 やがて、平安風のいらかの下、昭和元禄の装いも新たに、金色燦然たる仏具に襖がはえるようになった43年3月l30日、まんが寺建立式とまんが筆塚の除幕式が行われた。碑は徳川夢声の筆。いまでは年間10万人を超えるお客様があるという。和尚はこれを、「客千来」といっている。
  堂内でほ暖房は一切使わず、15歳未満は入堂お断り。すべて漫画の保存のため。「大きくなるまで、しばらく待って下さい」その立て札を後にした。



 見学の参拝客に漫画の説明をする土岐住職。それがまた、じつにユーモラス

  68年間書き続ける「小林日記」

  小杉御殿町の十字路のそばに、80翁、小林英男さんがおられる。この方は、郷土研究会の会長、市会議員等をなさった有名人であるが、大正3年9月から、毎日1ページ、一日も欠かさず日記をつけてこられた人で、地域の移り変わりを知る生き字引である。

 東京・築地の立教中学の時、銀ブラをして、その折、ふと求めた博文館日記、それが書きはじめ。それから延々六十余年続いたというのだから、奇跡に近い。その間、白内障の手術で、術後、黒い眼帯をさせられた時は、手元のノートに手さぐりでメモしておいて、後に清書したとか。アメリカやブラジルに行った時には、重い日記帳を持ってゆき、その日のうちに夜のホテルで記述したともいう。ともかく、どんなに遅くなっても、その日のうちにつけることが肝心だという。

 永い日記生活の中では、ある1年は、毛筆の稽古のつもりで和紙に筆で書き、自分で製本したものもあった。観音開きの本棚の扉を左右に開くと、2段にぎっしり詰まった六十余冊の日記帳とメモ用の小ノート。そのときには、国宝の仏像御開帳の場にいるような気持ちになった。



「小林日記」御開帳の場
 その夜、たまた七千年昔の『更級日記』のテレビを見たが、『小林日記』も、千年残したいと思った。翁の80歳のお祝いに、川崎市は、大金庫を寄贈して焼滅を防がないと、悔を千歳に残すことになるのではないか……。
 この日記は、いまや引っ張りだこ。『川崎空襲戦災の記録』、『川崎市史』、その他数冊の大冊の著述に、『小林日記』がそのまま転載され、光輝を放っている。
 「いろいろな本に転載されるようになり、千客万来ですが、書いている時は、こんなことは全く意識していませんでした」
 と淡々と語られるか、何かを意識なんかしていたら、こんなに続くものではないだろう。


  小林翁の話「戦前・戦後の小杉界隈」

 小林家では、父上は銀行員で、養蚕もやっており、いまの南武線の向かい側や、等々力緑地の方の桑畑に桑摘みに行ったという。そのため自分もご子息も、農大を出られている。祖父は、どうしても農馬をうまく扱えなかったので、農業をあきらめ、村役場に入り、のち村長になった。

そもそも、現在の南武線は、奥多摩の石灰石を、川崎の浅野セメントに運ぶためにできたのだった。いまの 「武蔵小杉」駅は「グラウンド前」駅と呼んでいた。

 「東横線の方が先に走っていたのですが、南武線が先に走ることになっていたので、東横線が上を走ることになったのです。高架といっても、いまのようにコンクリート造りではなく、土盛りだったので、地上で幅が広くなる分だけ、土地を買収したものでした」

「多摩川の堤防工事が完成すると、川の中の砂利取りは、堤防の保安上、禁止されました。堤防の外の、いまの東横水郷のあたりの表土を取り去り、下の砂利を採掘することになったのですが、これが大工事になりました。そのために東横電鉄の独占となって、ずいぶん大きな穴があちこちにでき、電鉄では、魚を放って『東横水郷』という釣り堀にしました。以前は1号から5号までも大きい池がありましたが、その後次第に埋めたてられ、いまは一つになってしまいました」

「戦争がはげしくなると、徴用されるよりは、というので、この辺の人は富士通や日本電気に入りました。そして、長年勤めて退職金を貰うと、みんなアパートを建て、会社の寮に。会社の方も、元従業員のアパートを優先して、寮に借りたようです」

「この辺の百姓は“コイかつぎ”といって、天秤棒の両端に肥桶をつるしてかつぎ、東京までゆきました。馬にコイ桶をつけてゆくのを“馬ゴイ”、舟で河口から芝浦の増上寺までゆくのを“舟ゴイ”。行きには、年貢や野菜を積んでゆき、帰りには人糞を持ち帰ったのです」

小林翁の話は、淡々と尽きない。翁とオコタを囲んで話をしていると、歴史のカタマリと話をしているような気分になってしまう。広いお庭に、夕日も赤くなったので、歴史の館を辞去することにした。

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