編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利           NO.123 2014.7.24 掲載 

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歴史
 中原街道と共に歴史を刻む

      新丸子

                                                 

    沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。その好評連載“復刻版”


   
掲載記事:昭和57年57日発行本誌No.11 号名「欅」
    執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


  プロ野球も東横沿線でもつ?

  「多摩川園」を出ると、すぐ大鉄橋である。水門のちょっと上流には人垣に囲まれた〈読売巨人軍〉の練習風景が遠望できる。鉄橋の真下には(日本ハム・ファイターズ〉のグラウンド、凛々しいユニホーム姿の選手が白球を追っている。
 は、は〜ん、これで去年の日本シリーズは巨人対日本ハム、これを称してマスコミは多摩川の合戦≠ニ名付けたのか。やはりプロ野球も、東横沿線が全国を二分しているのか。


  大名行列が見られた中原街道


 
アッという間に電車は「新丸子」のホームに滑り込む。ここは川崎市中原区小杉町の地番。

 徳川時代初期には、ここは中原街道(平塚〜五反田)の宿場町で、未だ東海道五十三次が無かったので、参勤交代の大名が通過し、家康もよく鷹狩りにきて休息した。そのため、ここには大きな御殿ができ、大層栄えた。だが、1622年に「川崎」が東海道の宿駅に決まってからは、急速に衰えていった。

 しかし大正15年に東横線と南武線が開通すると、新丸子駅方面が次第に賑やかになっていった。


   平六大尽と名主・安藤氏の話


  
1808年には、蜀山人が、原 平六家(平六大尽、現在の当主・原 平八家)に泊まり、多摩川の氾濫の調査をして『調布日記』5巻を著わす。

 この平六大尽は、馬の背に千両箱を積み、吉原通い。吉原中の芸妓を総揚げして天下の紀国屋文左衛門と争ったという逸話を残している。それ以来、「大尽狂」と呼ばれるようになったという。そのため、家産は大いに傾いたが、現当主の平八氏が奮闘苦心の未、土木業で挽回した。
現在の会社名「大陣京」は、同家の屋敷が陣屋跡地であったところから名付けただけでなく、「大尽狂」をももじったものであるという。これひとつを見ても、平八氏の非凡な才がうかがわれる。

 明治6年には備州藩の官軍が小杉宿を通過し、半月間、丸子の渡しに砲列を敷いた。小杉村は大騒ぎとなり、官軍に協力すべきか否かで逡巡した。「どちらに味方するのか?」と、時の名主・安藤氏は官軍から強談され、人足242人を出し、難を逃れたという。


明治〜大正、小杉十字路辺

 明治23年、第1回帝国議会選挙のときには、板垣退助が、選挙演説のため小杉の泉沢寺へきた。明治34年には中原小学校がすでに完成。明治36年安藤家は郵便局をはじめた。大正2年、溝の口〜川崎間の府中街道に乗り合い馬車が走り、小杉十字路には停留場ができ、賑わった。

 大正6年、小杉村に初めて電燈がともる。この時、電気は農作物に悪い影響があるというので、猛反対する者もあったが、子供たちはランプのホヤ掃除という、一番いやな仕事から開放されて大喜びだったという。一戸当たり、5燭光1燈と決められていたが、その明るさには、みな驚いた。でも、電気代が滞ると、すぐ消されてしまったという。

 大正9年、河口から久地までの多摩川堤防の大工事が始まり、部落ごと移転しなければならない地区もあり、大変な騒ぎとなった。


昭和6年ころ中原街道面の小杉十字路辺にあった郵便局

街道筋に茅葺き屋根が多いなか、トタン屋根でベランダ付きのモダンな郵便局は、ひときわ目立った
 提供:安藤豊作さん(小杉町)


中原街道と府中県道の交差点「小杉十字路」

おかげで今日の立派な堤防が完成し、以後氾濫の被害が無くなった。なお、この年に乗り合い馬車がバスに変わった。

 大正10年、中原郵便局の中に電話局ができ、泉沢寺境内にはテントを張って、盛大か開通式が行われた。開通は四十数本であったが、局番は公平を期するため抽選で決めたという。

 大正15年、東横線の新丸子〜神奈川間が開通。そこで東横電鉄は、新丸子に16万平方bと38万平方b、元住吉に8万平方bの宅地造成を大々的にはじめ、土地購入者には1年間無料パスを提供したのだった。そのため、小杉御殿以来栄えていた小杉十字路付近が急速にさびれていった。


  活況を呈した軍需工場

 
昭和4年になると、多摩川花火大会がはじまる。渋谷の改札口脇には、白い大きな実物大の花火玉が陳列され、人気をあおったため、当夜は大変な人出であった。さらにこの年、五島慶太社長は日吉台の24万平方bを慶応大学に、6年には新丸子の3万平方bを日本医科大学に、10年には元住吉の3万平方bを法政大学に提供し、乗客の増加をはかった。

 満州事変が勃発した昭和10年、丸子橋が完成し、軍需景気とともに富士通、日本電気も操業を開始した。
 
 日本軍は満州が一段落すると、すぐ中国をうかがいはじめたので、国内にも反対論者が現われた。軍は青年将校を喉唆して、昭和12年「二二六事件」を起こし、これらを一掃、「日中戦争」に突入していった。

 昭和13年には、ついに「国家総動員法」が制定され、軍需工場はますます活況を呈した。
 富士紡川崎工場は東芝に買収され、多摩川畔には日本光学、東京衝機、三菱重工、荏原製作所、帝国通信機、大同製鋼、東京機械、不二越精機、沖電線などの大工場が進出、全国から青少年労働者が上京し、新丸子界隈は、国民服の群れで溢れた。



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