編集支援:阿部匡宏
        編集:岩田忠利    NO.122 2014.7.23 掲載   

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歴史
 
 町会の“秘話”


  田園調布・多摩川園編
                      
                                                 

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   
掲載記事:昭和57年5月1日発行本誌No.11 号名「欅」
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


  全国でも珍しい社団法人の町会

田園調布駅の西側に出ると、整然とした街並がある。これは、欧米から帰った財界の重鎮・渋沢栄一が、当時外国で流行し出した「田園都市」を作ろうと、この地に80万平方bの地域を買収して、大正7年に「田園都市株式会社」を設立し、かれの構想に共鳴する人たちだけに土地を分譲したものである。

 大正12年に、目黒蒲田電鉄(今の目蒲線)が開通し、「調布」という駅ができた。同年の関東大震災の時、この地の家の被害が全くなかったことが、評判になり、急に人気が高まった。
 駅前には、矢野一郎撰書の田園調布の由来″という立派な碑がある。ここの町会は社団法人田園調布会″という全国的にも珍しい町会である。
  創設以来の副会長の山口知明さん(80歳)に、何故か尋ねた。造成の時出来た「宝来公園」を、渋沢栄一さんから、町会に寄贈するということになり、法人資格でないと受取れないので、急遽東京都に社団法人の申請をした。町会の役員は名士ばかり。直ちに許可が出て、宝来公園を受取った。その後この公園は東京都に寄付されたが、社団法人だけが残ったというわけだ。

 駅前広場の右角に、赤坂のホテルニュージャパン火災のため、またまた時の悪人になった横井英樹の邸がある。山口さんの話では、月500円の町会費は、ちゃんと納めているそうだ。いま、1000名の町会員がいるが、さすがに未納は無いという。


 
  鉄筋の立派な町会事務所で

 副会長の山口さんの話を伺っていると、そこに小学生の女の子3人がにぎやかに、入ってきた。大きなノートを抱えて、
 「田園調布の、70年前のことを、いろいろききたいのですけど……」
 「どんなことが、ききたいの?」
 と山口さんが聞くと、3人は顔を見合わせ、一人がノートを開いて、
 「え−と、70年前、えーと、このへんの人は、えーと、何を食べていましたか?」
 と。それに山口さんは、
 「別に変ったものは、食べてはいませんよ。お米と野菜ですよ。何しろ、その頃は、このへんは、畑ばかりだったから……」
 この小学生は、3年生だという。3人とも立ったまま、何やら、大きなノートに書いている。山口さんは、
 「きょうは、お客さんだから、明後日の午後1時半頃いらっしゃい。ちゃんと座ってお話しましょう」
 と、親切に話して帰した。

  「何しろ、毎年この時期になると、3年の社会科が、郷土の歴史ということらしく、毎日のように3,4人くらいくるので、仕事にならないんですよ」
とこぼしていた。先生の宿題を各グループで調査報告するらしい。



園調布西口駅前にある鉄筋2階建ての町会事務所
「この事務所は、鉄筋で、ご立派ですね」と私が尋ねると、山口さんは次々とその経緯を話し始めた。
 「前の建物の裏の130坪の土地が、昭和15年に、2万円で売りに出された。で、銀行から借金してここを買ったのです。
 いずれ建てようと思っているうちに、戦争が激しくなり、そのまま空地になっていました。

 食糧難になったので、カボチャ畑にしておりました。ところが、東急さんから『いま貸してある土地を返して貰えないか、その代わりに、銀行の借金も返してあげるし、地上2階地下1階の町会事務所を建ててあげましょう』と。

 もともと東急さんとうちとは親戚みたいなものなので、話がすらすらと進みました。いま、この2階と1階の半分は貸会議室にして、私は地下に住んでおります。いまは、生涯学習の花盛り、空いてることはありません。ともかく、とても恵まれた町会です。


 「何しろ、在住の名士は、渋沢秀雄、三浦朱門、曽野綾子、高峰三枝子、有馬稲子、石坂浩二等々数えきれないほどいるので、散歩していても誰もふり向きもしないため、住みよいらしいです。ロケなどもしょっちゅうありますが、人だかりもしません」
 という。

 「大正15年4月3日に、第1号の家が建ちました。牧師さんでした。分譲の広さは、150200坪でしたので、初めて買った人たちは、お金持ちの人ではありませんでした。曽野綾子さんのお父さんは、町田さんといってゴム会社をやっておられたようでした。そのころ綾子さんは、幼稚園児でした。その後、こわして建て替えたのが今の家ですが、他の有名人は、ここが一等地といわれるようになってから来ました。

 しかし、それからも年月が経ってしまい、いまの若い人が知ってるような俳優はいません。ともかく、他の地区に住むと、目玉にされるような人も、ここでは静かに住めるので、暮し良いようです」
 と、温顔で元気な老副会長は淡々と語ってくれた。

 

 
  夜の田園コロシアム


 駅の東側には「田園コロシアム」がある。昭和11年に開場し、テニスの国際試合が行われた。当時、このような施設があまり無かったので、いろいろな催しも行われた。

 私の家から近かったので、夕涼みがてら、よく出掛けたものだった。石井漠、高田せい子、エノケン、三浦環などの公演が、テニスコート上に急造された舞台の上で上演された。
 当時は、東京の空気は清浄だった。頭上には、満天の星座がプラネタリウムのように輝き、いくつもの流れ星が光芒をひいては消えていく。星空高く溶け込むように消えていったマダムバタフライの歌声は、いまでも耳に残っている。

 戦後も、このコロシアムの舞台は一時復活し、ダークダックス、ポニージャックス等の興業が盛んに行われた。そのうち都内に続々と大劇場・大体育館・大公会堂が建設され、再びコロシアムは忘れさられた。夜間照明も点灯されない建物は、車窓から見るとローマのコロシアムの廃墟のように見えた。

 ところが、最近のテニスブームで、またまた息を吹きかえした。コロシアムの周囲に、続々とコートを増設、いくらふやしても足りないほど、テニスウェアの人々が、押しかけている。




復活した田園コロシアム


   昭和15年、賑わう多摩川園遊園地入り口

 右手の階段を昇り、駅前商店街通りを横断する陸橋を渡り、高さ80尺の鉄塔「タワー」へ行けました
。    
 
提供:石川猛雄さん(田園調布3丁目)

多摩川園遊園地、昔と今

 
昭和58年に千葉県浦安市に「東京ディズニーランド」がオープンするという。そこで東急は、あの懐かしい「多摩川園」をあっさり閉鎖してしまった。総工費1000億円、敷地面積82.6ヘクタール(後楽園球場15個分)というので、太刀打ちできないと考えたのであろうが、私たちオジンにとっては、大変悲しい出来事だった。
 私の娘たちも孫たちも、「タマガアユン」と発音する頃から一諸に通勤した懐かしいオアシス。いろいろな乗物に乗って喜ぶ子供たちの笑顔を見るのが、とても楽しく、財布の軽くなるのも忘れて、カメラのシャッターを押し続けたものであった。うちのアルバムには、今は・幻の遊園地≠ノなってしまった「タマガアユン」 のスナップが山ほどある。

 「多摩川園遊園地」は、宝塚の創業者小林一三が、阪急沿線に宝塚新温泉を作って当てたのを、五島慶太も真似して作ったもの。開園は、大正1412月である。昭和54年に閉鎖になるまで、55年間、沿線人はもちろん、ずいぶん遠方からも来園者があった。

 はじめは、「夢の城」という外装がロココ風の建物で、室内にはペルシャから取りよせたジュータンを敷き、見事なステンドグラスが、天上に輝いていた。帝国ホテルを設計したライトの愛弟子・高島四郎が手がけたものであり、浴槽や洗い場は大理石の香水風呂で豪華さをPRした。しかしこれは、惜しくも昭和24年1月焼失した。


 さらに、宝塚を真似て、多摩川園少女歌劇団(小鳥座)を作った。この劇団の名前は、東横電鉄の役員で、五島とともに多摩川園の代表取締役であった渋沢秀雄が名づけた。
 大浴場と小鳥座のほかに、プール、観覧車、飛行塔、波乗りポート、メリーゴーランド、豆汽車などもあったが、予想したほどの繁昌はしなかった。やがて小鳥座は解散し、映画館になった。
 それでも春の花見と秋のよみうり菊人形展はにぎやかだった。私も会社の花見に高台の桜樹の下で、桜吹雪を頬にうけながら乾杯したものだった。
 その後は、遊園地の娯楽機専門の、「東洋娯楽機」という会社(本社・新丸子)が受託経営を始めてから、象メリーゴーランド、射撃台、弓などを増設、「夢の城」の跡に室内スポーツランドができ、子供天国になっていった。


 しかし、東京ディズニーランド進攻のため多摩川遊園地は、アッという間に、「田園コロシアム・テニスクラブ」に変身。そして、その開園の一大企画に、日本電気主催の「‘81フェデレーションカップ」を開催することになった。
 その第1日目、多摩川園駅のホームにおりたら、もう、ワーッという歓声が、風に乗って伝わってくる。ホームからは急造の大スタンドが見え、周囲には国際テニス連盟旗、日本テニス協会旗、日本電気社旗、参加32か国国旗が華やかに風にはためいていた。
 受付から中に入ると、テレビ中継車が2台とVTR専用車が2台、グワーンとディーゼルを唸らせており、メインコートをのぞくと満員の観衆の下で、チェコ対スウェーデン戦が行われていた。19歳のチェコのマンドリコワが善戦している。小柄な少女の細腕からは意外な豪球が打ち出される。さすがに世界のベストエイト。負傷による6週間の休養と、飛行機上での4時間の睡眠だけというハンデを克服した見事なプレーに、観客は魅了されていた。

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