編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利    NO.119 2014.7.22 掲載 

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歴史
 
 緑の大地も今は…

       
学芸大学

                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   
掲載記事:昭和57年1月1日発行本誌No.9 号名「梅」
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) イラストマップ:素都満里子(大倉山) 



 
   女子高生の忘れられない踏切事故

 前号で、祐天寺のそばの踏切事故を書いたが、東横線が地を這っている頃、この駅のちょっと手前の小踏切でも悲しい事故があった。
 それは、ある雨の午後のこと、学芸大学付属高校3年生で私の娘と同級生のAさんが、下校の折、お友達を自分の家につれて行こうと、放課後の解放感も手伝って、陽気に話し合いながら、自宅前の踏切にさしかかった。その踏切の先には、Aさんの家が見えた。

 渋谷行の電車が、右から左へと加速しながら通っていった。ふだんなら注意するのだが、話に夢中になっていた二人は傘をさしかけて、踏切を渡ろうと前進した。そこへ渋谷発の電車が左からやってきたのである。瞬間、左側にいたAさんの頭が、傘と一緒に電車の先端に当たり、Aさんの体は右へ跳ね飛ばされ、右にいたお友達の体に激突し、二人は線路に倒された。


 すぐ近くの家からは、Aさんのお母さんが飛んできて二人に抱きついた。


学芸大学附属高等学校正門

 お友だちはAさんの体に当たって倒れたので肋かった。一方、Aさんは耳から出血していたとはいえ、さしていたコーモリ傘がクッションになったのか、顔も体も損傷がなかった。お母さんは彼女にしがみついて大声で呼んでみた。しかし、頭を叩かれたAさんは、頭蓋骨の中が潰れており、ついに目覚めることがなかったのである。


 お葬式には、私も娘と一緒に参列したが、棺の上に掲げられた制服を着た彼女のうつむき加減の美しい顔写真は、数十年後の今日でも、目を閉じればはっきりと網膜に再現される。そのときの両親の悲嘆は目を覆わせるものがある。その踏切傍には、いつまでも可憐な花が供えられ、見る者の涙をさそった。


  学校を沿線に誘致する五島慶太



 毎回、交通事故の話ばかりで恐縮だが、東横沿線に学校や会社や住宅がふえてゆくにつれ、電車の運行数もふえ、急行も走り、踏切を渡るには大変な時間と注意を要するようになり、次第に高架になっていったのである。


 東横線に乗客をふやそうと思った五島慶大は、持ち前の強引さを発揮し、多数の学校を沿線に誘致し、その都度駅名を変更した。
 青山師範と都立高校を沿線に誘致するために、慶太は例によって強引に議会に工作した。それが贈賄の嫌疑にかかり、6か月市ヶ谷の未決監に入れられた。そして面壁端座して、読書と思索三昧の生活を強いられた。非凡な彼は、この環境に巧みに順応して、論語を十数回、聖書と法華経を数回読んだ。とくに菜根譜を精読し、出監後には自身で出版したほどである。転んでもただでは起きない、彼の真骨頂を発揮したのだった。


  白一点のPTA役員


  学芸大学駅から西へ900bゆくと、この問題の学芸大学の校舎の前に出る。ここは明治以来の伝統をもつ青山師範(のちの東京第一師範)と女子師範、豊島師範、東京青年師範、大泉師範、豊島師範女子部が、昭和24年に合併して学芸大学ができた。昭和39年に小金井に統合されるまでは、この大学の学長は、世田谷、小金井、大泉、竹早、追分、調布の分校をタクシーの運転手のようにくるくる回っていた。


 私の娘も、運よく小学部に入学でき、深沢の高校まで卒業した。小学校の時、私は唯一の男性PTA役員をやり卒業謝恩会を、自由が丘の料亭や目黒の香港園でやったが、先生方に私が代表で挨拶させられて冷汗をかいた記憶がある。

 その時のお母さん方の中には町村金吾、三木武夫、榊原神、豊増登等の夫人がいて、座ぶとんや灰皿を並べたり、料亭の交渉をしたり大忙しの中で、私は謝辞の練習だけをしていて申し訳なかった。だが、これが御縁で後年、女房の心臓が不具合になり、駅の階段も登れなくなった析、渋谷の榊原家へお願いにあがった時にも、奥様はよく私を覚えていてくださり、女子医大で夫君の執刀で僧房弁狭窄症の手術をしていただいた。女房は未だに生き長らえていてくれる。その御恩は夢枕にも忘れたことはない。PTAのお陰であった。


  クルマ洪水の目黒通り



 改札口を東へ出て、600メートルゆくと、目黒通りにでる。2,3年間、モーターロードという自動車雑誌に、世界のクルマという題で日本車の進出の状況を書いていたことから、どうしてもクルマに目がいってしまう。そんな析、自分の家の前を通る目黒通りを見てハッ! としたことがあった。これぞ日本のモーターロードではないか、燈台下暗しとはこのことかと驚いて、一日歩いてみたことがある。


 その時の作図(右のイラストマップ)が、これである。いやはや、クルマ関係の会社がぎっしり並んでいる。いまでもどんどんふえているのだからすごい。
 目黒通りというのは、別名放射3号線といわれているが、三田の清正公から目黒駅前を通り、環六、環七を横切って環八に突き当たるまで一直線なのである。ヘリコプターから見るとよくわかるが、いまでは、道の両側に、スーパーダイエー、トーヨーボウル、巨大なマンションが林立している。これが数千年前の時代だったら、緑の森と畑と川のほか何もなかったろう。数千年前に、目黒通りだけあったと仮定すると、ざっとこうなるはずだ。


 まず目黒駅の丘から権之肋坂を下ると、谷合いには目黒川。そこからは登り坂となり、頂上が今の環七のあたりになる。再び下りとなり、その谷合いを呑川が流れ、これを渡るとまた登りになる。下り坂になるのは今の産業能率短大のあたりからで、その底を九品仏川が流れている (いま目黒通りは大きな陸橋でひと跨ぎしているが‥‥‥)。その岸を登るといまの環八の尾根に出る。これを越えると急坂となり、下りきったところを多摩川が悠々と流れている。この先、神奈川には平地が多い。


 3つの丘陵、その谷間を流れる3つの川。数千年前の緑の大地がいまの目黒区であるわけだ。それが、いまでは日本のモータリゼーションの渦中にあり、代表的モーターロードとなっていることは、他地区の人にはあまり知られていない。
 天気の良い日の散歩に、都立大学駅で下車して、駅の脇を走る目黒通りを目黒駅の方へ歩いてみませんか。
 晴海のモーターショーとは一味違った、常設のモーターショーが見られ、ピカピカの外車や、いまや世界のトップレベルをゆく美しい日本のクルマがケンを競っていますよ……。



目黒通りで競う自動車各社

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