編集支援:阿部匡
編集:岩田忠利     NO118 2014.7.21 掲載 

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歴史
 時代の流れを感じて

     祐天寺



   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”

   
掲載記事:昭和56年11月1日発行本誌No.8 号名「楓」
   執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  イラスト:素都満里子(大倉山・主婦) 


 
    事故多発地帯
 

 祐天寺駅は、昭和45年に高架になった。大きな交通事故が相次いだのと、駒沢通りの踏切が大渋滞を起こすようになったからだった。
 祐天寺駅を出て、線路の左側の富士銀行、ケンタッキーフライドチキンの角を入り、サカエ通り商店街をゆくと、奇妙なガードがある。ナイヤガラという、有名なカレー屋の前である。以前、ここには、狭い踏切があり、しょっちゅう、車で通る度に、ひやひやしたものだった。果然、大事故が起こった。

 はとバスがこの踏切を渡ろうとして、中目黒方向からきた電車に衝突された。バスは、電車に押されて、踏切のすぐ脇の米屋さんとその隣の2軒を粉砕し止まった。いまのナイヤガラの前である。この事放で、踏切のわきに建っていた、高杉さんという、高杉晋作の末裔の夫人が、巻き添えをくって亡くなった。祐天寺駅直前のため、電車のスピードが低かったのと、はとバスのお尻にぶつかったため、運転手もガイドさんも助かった。このバスが、お客さんを降ろして車庫に還る空車であったのが、不幸中の幸いであった。



カレーの店ナイヤガラ前のガード


     八百八橋を架けた野村翁が眠る祐天寺


 駅から東方へ祐天寺商店街をゆくと、2,3分で駒沢通りに出る。この交差点を左へゆくと、200メートル程で有名な祐天寺がある。芝増上寺36代の高僧祐天上人の開基となっているが、実は、かれの高弟の祐海上人が建立し、師匠の祐天上人を開基としたのだ。祐海上人は「喜捨された金が百両になったら土地を買え」という寺則を残したので、代々土地を買い、同寺は大地主になったという。妙な寺則である。

 左わきの道を隔てて大きな墓地がある。正面に大きな
宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、祐天上人自筆の経文が納めてある。宝篋印塔の右に、野村文左衛門の名号碑がある。
 かれは、武州稲毛領上丸子村(川崎市中原区上丸子付近)のほしか(魚肥)商人であったが、いまの川崎から相模原方面にまで商圏をひろげ、大金持ちになった。

 大金持ちは、みな大ケチなのが普通なのだが、この人は信仰心が強く、お百姓さんのために金持ちになったのだから……というので、当時村々の小川や潅漑溝に架かっていた土橋を、つぎつぎに石橋に変えていった。これを地元の人たちは八百八橋″と呼んで、祐天寺の
宝篋印塔のすぐ隣に、頌徳碑(しょうとくひ)を建立して、その徳名を末代にまで残した。いまでは、都市開発のため、ほとんど取りはずされてしまったが、川崎市は、野村翁頌徳のため、JR小杉駅前広場の植込みの中に、当時石橋を復元し、記念碑が建てられている。
 まことに立派な石橋である。あゝ、徳は孤ならず、世の金持ちの指針として、もっともっと宣伝されるべきだと、ガッチリした石橋の上に立って痛感した。

 なお、墓地には、大正天皇の生母、柳原愛子の墓が、祐天上人の墓の真ん前にある。明治天皇は彼女をちゃぼ≠ニ呼んでいたが、小柄の美人であったという。
 祐天寺は、江戸町火消の信心が厚く、いろは各組の纏(まとい)が飾られている。


       祐天寺に残るたった一枚の畑と桃の木



 祐天寺駅前通りと駒沢通りの交差点を突切ると、左角に、大きな畑がある。この辺では緑の畑はここだけになってしまった。しかも桃や梨の樹がある。ここは、この辺一帯の大地主、倉方綱蔵氏の畑であり、この畑の隣の目黒税務署の大駐車場も、その隣の目黒税務署の土地も、また、その真ん前のビル、青色申告会館も、みな倉方さんの土地であった。

 綱蔵氏は、眼光けいけいとした老翁で、自宅もすぐそばにあり、歌舞伎門を入り、石畳を渡ると、玄関があり、「ドーレ」と門人が出てきそうな家である。玄関の周囲は、昼なお暗い樹暗であり、武蔵野の富農のたたずまいがそのまま残っている。

 この人の弟さんの英蔵さんは、戦前朝鮮の尉山で果樹園を経営していたが、引揚げの時、秘伝の苗木だけを持って帰ったという篤農家。引揚げ後は、都立園芸学校に勤めながら税務署の隣の畑で、果樹の研究を続け、ついに「倉方白桃」を開発、現在、全国で栽培されている。先年、アルゼンチンに招待されて、同地で大歓迎されたというくらい、海外で有名になっている。

 終戦後の一時期、わたしは、青森、長野のリンゴの防虫袋を1日100万枚くらい生産していたことがあった。
 ある日の夕方、自転車の荷台にミカン箱をのせた、お百姓さん風の人が、工場の門を入ってきて、ウロウロしている。尋ねてみると、桃と梨の防虫袋を数百枚ほど欲しいという。
 「桃の研究をしている倉方という者です」といわれる。そんな少量は機械では作れないので、夜、女房と二人で貼ってさしあげた。そして、これが何年も続いた。その時の話で、倉方白桃研究の苦心談をおききした。

 その倉方白桃が、税務署の隣の畑にあることを知った時には、大変嬉しかった。英蔵さんは、今は、世田谷区に住んでおられるということだった。




目黒税務署の隣

     寄付なしで建てた青色申告会館


 税務署の前の青色申告会は、この新会館の建築以前から私は十数年、役員をしていた。この会の会長松崎一郎氏は、長く会長職にあり、税務関係では目黒の第一人者である。碁、将棋、珠算等の有段者であり、演説の名人で、大旅行家である。
 私もかれに連れられて、世界中を歩くことになった。非常な智恵者で、この立派な青色申告会館を、一円の寄付も受けずに会債方式で建てあげた時にはびっくりしてしまった。以来、全国の青色申告会の役員の見学が殺到している。           (次回は「学芸大学駅周辺」)

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