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二つの地名をくっつけて、ひとつにする例、多いですね。「大田区」もそのひとつ。だから「太田区」では、まちがい。そういえば『とうよこ沿線』の「とうよこ」も、東京と横浜の一文字ずつをとったもの。
今回は、そんな合成地名″をいくつか拾ってみました。「太田区」と書いてる人のために。
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大森+蒲田
◆大田区 (東京都)
東京都23区のひとつである「大田区」は、昭和22年に旧大森区と蒲田区とが合併して生まれたものである。その際、旧区名から一字ずつ取り、つけられた新区名が「大田」であった。したがって「太田区」ではないのである。
大≠フ方の「大森」は、この地に大きな森があったためについた地名との説がある。また、田″の方の「蒲田」には、アイヌ語で「飛び越えた所、沼の中の島」の意味の「カマタ」に由来するとの説と、「泥深い田」を表わすとの説がある。
それにしても、大田区に住んでいる人までが、「太田区」と書いているのを見ると、地名への関心がまったくないんだな、と嘆きたくなってしまう。
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消えてしまった伝統の地名
◆碑衾(ひぶすま) (東京都目黒区)
「碑衾」という地名は、明治22年に碑文谷(ひもんや)村と衾(ふすま)村が合併して生まれた。旧村名から一字ずつとったもので、昭和7年まで町名として残っていたが、目黒区成立時に消えてしまった。片方の「碑文谷」は、今も残るが、「衾」は昭和3年に「八雲」となり、これも消えている。
「衾」という地名は、あまり例を見ない。「伏馬」などとも書き、このような名の塚があったとの説がある。しかし、「伏す」+「間」で、傾斜地あるいは高地の間の地、を表わすものと考えられよう。
少なくとも戦国時代からは存在していた「衾」という地名、消えてしまったのは残念である。
しかし、うれしいことに、「碑衾」の名は城南信用金庫の支店名(写真下)に残っている。「都立大支店」などにならないよう、がんばってほしい。
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城南信用金庫の発祥の地、碑衾支店
平成3年撮影:岩田忠利
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川をはさんで一つに
◆二子玉川 (東京都世田谷区)
「二子玉川」という地名も、「二子」と「玉川」を合わせたもの。「二子」は川崎に、「玉川」は東京にある地名で、多摩川をはさんで向かいあっている。
このように、川をはさんで向かいあった集落を対向集落″などという。ハンガリ−の首都、ブダペストは、ドナウ川をはさんだ「ブダ」と「ペスト」の二つの町が一つになったものとして知られている。
「二子玉川」という地名は、大井町線の駅名として昭和4年につけられたのが初めてである。その後は遊園地、団地などの名になり、現在でも二子玉川園駅周辺の通称として定着している。
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橋と学校に残る
◆大綱(おおつな) (横浜市港北区)
「大網」という地名は、明治22年から昭和2年まで村名としで存在していた。大≠ヘ大曽根、大豆戸から、綱″は綱島から取ったものである。
現在、鶴見川に「大綱橋」が架けられている。この橋は、かつて「綱島橋」という名の土橋であったが、明治27年に木造に改修されたのを機に「大綱橋」と改められたものである。大曽根と綱島を結ぶ意味と考えられるが、村名をとったとも考えられる。いずれにしても、大倉山と綱島を結ぶ橋、という意味ではない。大倉山という地名が生まれたのは昭和になってからである。
大倉山駅近くには「大綱」を名乗る小・中学校がある。これも旧村名を残す例である。
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二つの地名を合わせてひとつにした例は、駅名に多い。近くにも荏原中延、雪が谷大塚(池上線)、池尻大橋(新玉川線)、伊勢佐木長者町(横浜市営地下鉄)とある。二つの駅がひとつに統合された時などに生まれる例もあるが、最近では住民感情を考慮して駅付近の地名をくっつけるものが目につく。
住民への配慮もいいが、安易な駅名のつけ方は、やめてほしいものである。
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<主な参考文献、資料>
『角川日本地名大辞典 13東京都、14神奈川県』
『横浜の町名』 『新編武蔵風土記稿』
『目黒区史』 『橘樹郡大網村郷土誌』
『古代地名語源辞典』 『市郡合併記念碑衾町史』
『蒲田町史』
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