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 編集:岩田忠利        NO.98 2014.7.09 掲載  

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歴史 地名H 生きている沿線の歴史  

  古き地名をたずねて


   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”
   
掲載記事:「地名 その11 昭和59年1月1日発行本誌No.20 号名「松」
   執筆:桑原芳哉
(大倉山・学生) 絵:石橋富士子(横浜・イラストレーター) 地図:伊奈利夫(桜木町

 

最近はやりの地名が「〇〇が丘」「△△台」「××野」といったもの。住宅地としてのイメージをよくしたいのか、この沿線にも目につく。しかし、こんな地名はまだ“赤ん坊”。この沿線にも、少なくとも1000年以上も昔から残されている地名があります。

 今回は、おじいさん、おばあさん″にあたるような地名を、とりあげてみました。


 今から1000年あまり前、平安時代前期の永平年間(931938)、源信和尚によって『和名類聚抄』というものが編纂された。この『和名類聚抄』には、おそらく9世紀頃のものと思われる郡名・郷名が記載されている。この中に、現在も沿線にそのままその地名が残っているものがある。

 そこで、この『和名類聚抄』に記載されているものを中心に、1000年以上昔からあると思われる地名を紹介していこう。

  神社にも歴史の匂い・・・

  師岡町(もろおかちょう)   (横浜市港北区)

 師岡」と書いて「モロオカ」と読む。この「モロオカ」という地名が、『和名類聚抄』久良郡の項に、「諸岡郷」として見られる。
 この地名のおこりについては、・多くの説がある。神社に因むもの、岡の形態から…と、どれとも決めがたい。
 この師岡町には、神亀元年(724)に創建されたという、関東一円でも古いと言われる師岡熊野神社がある。なにやら歴史を感じさせる町ではないか。
 実は、筆者の住むのがこの師岡町。調べてみるまでは、こんなに古い地名だとは思いもしなかった。地元のことというのは、見落としがちですね・・・。

国分寺出土の瓦にも・・・

  高田町   (横浜市港北区)

 
同じ港北区内にありながら、諸岡郷(師岡町)は久良郡、この高田郷(高田町)は橘樹郡の項に見られる。古代の行政区分、今とはやはり違う。

 ところで、高田郷の名は、諸岡郷ともども武蔵国分寺跡から出土した瓦に、その名が刻まれている。つまり、武蔵国分寺の建立にあたってJ高田・諸岡の人々も協力したということである。

 武蔵国分寺は天平宝字2年(758)以前には完成していたとされるので、高田・諸岡という郷名も、758年以前からあった、と考えられる。国分寺出土の瓦にも『和名類聚抄』よりもきらに200年前、今から1200年も昔からあるというわけである。
 

 こちらは万葉集に・・・

 荏原(えばら)   (東京都品川区)

 
今は品川区内の一町名となってしまった感じのする「荏原」。この地名、かつては一つの区でもあり、さらにさかのぼれば、現在の品川・目黒・大田・世田谷各区と、渋谷・港・千代田各区の一部をも含む郡名として、地域を代表する地名であった。『和名類聚抄』にも「荏原郡」として一項が見られ、その中に「荏原郷」も見られる。

 荏原という郡名はさらに昔の『万葉集』にも見られる。荏原郡内から防人として筑紫に旅立つ時の歌が、防人の歌として収められているのである。

 草枕旅行く夫が丸寝せば 家なるわれは紐解かず寝む(巻20、4416)

  留守を守る荏原女性の決意である。


  慶応の「三田」と元は同じです

 三田(みた)   (東京都目黒区)

 
『和名類聚抄』荏原郡の項には 「美田(御田)郷」の名が見える。現在、目黒区にある「三田」は、この美田郷の名残と考えられる。

 三田という地名は港区にもある。こちらの方が、慶応大学などでよく知られている。この二つの 「三田」、もとは一つの地であったようである。つまり、美田郷は今の港区から目黒区にまたがる広い地域をさしていたのである。

 「ミタ」という地名の起こりには、大きく二つの説がある。一つは皇室または豪族・寺社などの所有田、もう一つが泥田を表わす「ムタ」の転化、である。いずれにしてもこのあたり、かつては一面の田んぼだったのであろうか。


  条里制の名残・・・

 市ノ坪(いちのつぼ)   (川崎市中原区)

 
『和名類聚抄』には記されていないが、「市ノ坪」 という地名もかなり昔からのものに違いない。

 条・里・坪などのつく地名は、古代日本の耕地の区画法であった条里制の名残である。この「市ノ坪」も、もちろんその一つで、かつては「一の坪」であったのであろう。農耕地としては、かなり早くから開発された地である。

 しかしこのあたり、農耕地として恵まれていたかというと、そうでもない。特に水には悩まされ、江戸時代には二ヶ領用水が掘られた。が、日照りが続くと水争いは絶えなかったという。

                        ◆◇◆

 このほか、『和名類聚抄』に記載されている郷名で、今なお沿線に残っているものとしては、多摩郡の「勢多郷」がある。これは、現在の世田谷区瀬田ではないか、と思われる。(「瀬田」については、NO.96に掲載)

   「古き地名をたずねて」 ということで六つの地名をとりあげたが、このほかにも、自然地形などから起こった地名など、かなり昔から残っているものも数多くあるだろう。歴史の重みを感じさせる地名が、明るく軽快な「〇〇が丘」になってしまわないように願いたい。地名の おじいさん、おばあさん≠ノも、長生きしてもらいたい。


 
 <主な参考文献・資料>)

『角川日本地名大辞典 13東京都』
 『横浜の町名』 『川崎新中原誌』
 『和名類聚抄郡郷里驛名考澄』
 『古代地名語源辞典』 『横浜市史』
  『ふるさと一町一話(下)』
 『品川区史』 『荏原區史』

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