今はわずかに10本あまり・・・
◆桜丘町(さくらがおかちょう) (東京都渋谷区)
桜丘の名は、昭和3年に当時の豊多摩郡渋谷町の大字名として生まれ、その後昭和7年、東京市渋谷区発足とともに町名となったものである。渋谷駅の南部の台地上に位置し、このあたりl帯に桜の木が多かったことから「桜丘町」と名づけられたという。
いまの桜丘町は、三つの顔を持っている。一つは渋谷駅付近の飲食店街、二つめは国道246号線(玉川通り)と、その上を走る首都高速3号線沿いの、東急本社を代表とするオフィス街、そしてもう一つは閑静な住宅街としての顔である。
ところで、町名の起こりともなった多くの桜の木、現在はどうなっているであろうか。手元に渋谷区建築公害部による『樹木の実態調査報告書―かな街づくりのためにー(昭和54年3月)』という資料がある。この資料の桜丘町の項を見ると、「さくら13本」という数字がある。4年前の資料でその後の増減が明らかでないが、わずか13本では「桜丘町」の名を返上した方がいいのでは、などと思いたくなってしまう。
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世田谷吉良氏繁栄のあと・・・
◆桜・桜新町・桜丘 (東京都世田谷区)
桜、桜丘は昭和41年に、桜新町は昭和43年に生まれた町名である。世田谷区中央部に位置するこれらの町名が、その昔繁栄を極めた世田谷吉良氏にまつわるものであることは、あまり知られていないようである。
世田谷吉良氏は、室町時代に初代治部大輔治家(はるいえ)が上野国飽間(こうずけのくにあきま)(現群馬県安中市)から世田谷郷に入部した時に始まる。この時治家が築いたものが、現在城址公園となって残されている世田谷城である。
その後6代目吉良頼康の代に、世田谷吉良氏は全盛を極めた。この頃、世田谷城は、その本丸にあった桜にちなんで「桜御所」とも呼ばれるほどであった。この 「桜御所」という名が、のちに「桜」という地名を生み出したのである。
世田谷城は、世田谷吉良氏が栄えるとともに発展したが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の手で小田原北条氏が滅亡すると、その運命を共にして廃城となった。現在では、城址公園の名にかつての栄光を残すのみとなっている。
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旧中原街道の面影を残す・・・
◆桜坂 (東京都大田区)
目蒲線沼部駅から北東に上る、両側に桜の木が並ぶ坂・・・ それが桜坂である。この桜は、昭和になってから多摩川堤愛桜会の手によって植えられたもので、「桜坂」という名もこの桜にちなむものであることは、言うまでもない。
この桜坂、もとは中原街道であった。江戸時代には、坂下に茶屋も置かれ、旅人や商人の往来で賑わっていたという。しかし、今の中原街道ができると、この旧街道の坂は急速にさびれてしまった。そこで、多摩川堤愛桜会の方々が、この坂に桜を植え、桜坂と名づけて往年の賑わいを呼び戻そうとしたのであろう。
「桜」のつく地名の中では、その起こりとなった桜の木が比較的新しいため、今でも数多く桜を見ることができる。名と姿の一致した、貴重な存在の地名である。
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福山雅治の歌「桜坂」は、ここ桜坂
平成21年4月撮影:岩田忠利 |
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