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      NO.81 2014.7.01 掲載

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樹木 駅名の由来@
      駅誕生秘話
(東急大井町線)

  掲載記事:昭和56年(1981年)9月1日発行「とうよこ沿線」.7号
編集:岩田忠利

二子の名を惜しみ玉川園を加えて、二子玉川園

 肌を通りすぎる風も、水の香が漂う二子玉川園。ふたこ・・・どなたの胸にも心地よく響く地名です。
 「二人の子供の悲しい物語でも……」とロマンに似たものを感じさせます。が、実は二子の「子(ね)」は入江を意味するものと思われます。つまり、二つの入江・・・ひょうたん型の入江を思い浮かべてください。

  さて、駅名の由来ですが、二子という地名は神奈川県側にあるのに、なぜ東京側につけられたのでしょう。それには、自然現象がいたずら”をしました。永い歴史のうちには、河川は蛇行を変え、進路さえも変えてゆきます。 かつて多摩川は、現在よりずっと神奈川寄りを流れていました。現在の二子(川崎市高津区)のところは、多摩川よりこちら側にあり、東京府荏原郡瀬田村の一部だったのです。
  東京側の人たちは.<川のヤツ、また、こちら側へ寄って来やがって、二子をあちらへ 盗られ≠トしまい、まったくクヤシイ! それなら二子の名前を、せめて駅名にでもしなくちゃ損だ!> 
と言ったかどうかはみなさんのご推察におまかせを……。
  それはともかく、二子は東京の代表的な川の入江だったのです。
 その証拠に、玉電ができた大正11年ごろは、多摩川には何隻もの機械船が浮かび、砂利を採取していました。玉電はその砂利を都心へ運ぶ目的でつくられ、現在の二子玉川園駅の前身は砂利積み込み場≠セったのです。
 当時の玉電は、大きなトロッコみたいなもので、前と後ろに運転手がポッンと立っているだけでした。今のお子さんなら、タカーイお金を出しても砂山電車≠ノ乗ってみたいでしょうね。

 大井町線の開通時の駅名は「二子読売園前」でした。ところが、昭和19年戦局悪化で遊園地が閉鎖され、駅名は「二子玉川駅」に改称されました。戦後またまた遊園地が復活し、駅名を「二子玉川園駅」となったしだいです。
  
  文・山科芳一(二子玉川園・慈願寺住職)




昔、砂利積みこみ場だった二子玉川園駅



 ◆上州(群馬県)と縁あって、上野毛

 大井町線が昭和4年に自由ケ丘(現・自由が丘)二子玉川間を開業した当時から「上野毛」と書いてかみのげ≠ニ読むこの駅名、実は地名からきているものである。この地名には、おもしろい説がある。

  地名には上と下、また越前と越後のように前と後で区別している所が多い。奈良時代、上(かみ)とか前(まえ)は奈良の都に近い方をさしていた。北関東の両毛地帯の群馬県のことを昔は「上野国」と書いて「こうずけ」と呼んだ。また、栃木県はその頃下野国(しもつけのくに)と呼ばれており、この二つの地名などもここからきているものであろう。

 奈良時代、上野国にあった勢力が都に向けて南進してきた際、武蔵国のこの地に居をかまえ、自らの故郷の地名である上野に両毛の毛をかみあわせて上野毛という地名をつけたという。



上州人が居を構えた上野毛は、今は高級住宅地

 これは、北千束に住む郷土史にくわしい岸田政光さんの説であるが、これにはかなりの信憑性がある。
 この近くに、大塚古墳という古墳群があるが、そこから出土した七鈴鏡という調度品は、当時関東以北に居住する者が使用していたという。従って当時この地を支配していたのが上野国の者だという可能性は大である。
 
 ところで現在の上野毛駅周辺は、静かな住宅地で、五島美術館もある。また、駅のある所は開設以前、田中家(現在田中照夫宅)のものであったらしい。  

                                  文・石井真由美(綱島・店員)




滝の音が“とどろき”、等々力

 等々力といえば、有名なのは等々力渓谷だが、この渓谷、水の流れがサラサラというのはひと昔前のこと。 今は環八の排気ガスと騒音に囲まれたドプ川渓谷といった感じ。
 一説にあるように、滝の音がこだましてとどろく≠ゥら等々力だなんて想像もつかない。

 そもそも滝のある等々力として知られるようになったのは、東京都が行なった名勝地のコンテストで1位に選ばれたからで、それまでこの辺は、静かな町だったらしい。
 等々力渓谷の流れは、武蔵野平野の野川の一つであった谷沢川からきていて、魚を釣ったり、住民の憩と生活の場所であったという。
 昔、夏になると毎年、雨乞いの儀式が行なわれ、渓谷の水を六斗樽にいれ、玉川神社(その頃は熊野神社といった)まで運び、数人の人を木の柵で囲み、水をかけながら雨降りと豊作を祈願したという。
また、玉川神社は、軍隊のがれの神様としても地元で有名であった。徴兵検査が近くなると、餅を投げて、兵隊のがれを祈願する者があとをたたなかったという。しかし、それも当時の憲兵のきびしい監視のもと、いつのまにか消えてしまった。


 現在、汚れてしまった渓谷の水をきれいにする計画が東京都当局の方ですすめられており、昔のように澄んだ水が見られる日もそう遠くはない。

 しかし、洗濯物を持った婦人が上流でにぎやかに談笑する姿や、下流で魚釣りなどするという風流な光景は二度と見られないであろう。ますます観光化される等々力渓谷に淋しそうな顔をした地元の老人がいた。
           文・石井真由美(綱島・店員)






等々力渓谷は右方向へ徒歩2〜3分



尾山台駅前から延びる尾山台商店街

◆小山から尾山になった、尾山台

 石を投げれば、武蔵工大(現東京都市大学)の学生さんに当たる。それほど武蔵工大の学生で賑わう街、尾山台である。学生相手のジャン荘、ゲームセンター、食べ物屋が目立つ。一歩街並みをはずれると、整然と区画された静かな住宅地である。

 この駅、他の駅より1年遅れの昭和5年4月に開業した。その後、人口が増えるたびにホームが長くなるという奇妙な現象が続いていた。最近やっと人口も落ち着き、ホームの改築工事の槌音もきこえなくなった。
 そもそもこの地は江戸初期には幕府領、そののち寛永10年(1632)から近江彦根藩井伊氏領地となったが、すでに天文20年(1551)の古文書によると、「小山郷」の地名が初見されている。江戸時代には武州荏麻郡小山村だった。そして明治8年小山村を「尾山村」と改称された。

 今日の尾山台は、多摩川台地の一角に位置することから、この地名がつけられたといわれ ている。
             文・斎藤善貴(尾山台・画家)


 ◆九品仏浄真寺から、九品仏

 
自由が丘で大井町線に乗りかえて次の駅が九品仏である。駅の斜め前に浄真寺というお寺がある。正式には、九品仏浄真寺といい、まさしくそのお寺から出た駅名である。
 浄真寺は、元、深川にあったお寺だが珂碩上人という人が、4代将軍家綱の治世に、この地を賜わり、寺を開いた。この寺には、上品堂、中品堂、下品堂という三つのお堂があり、各堂の中に3体の仏像が安置されている。そのことから九品仏と言うがくほんぶつ≠フ呼び名は、観無量寿経という経典からきているそう。
  この寺で有名なのは、3年毎に行われる「お面かぶり」だが、他に珂碩上人が自らの顔を水面にうつして作ったといわれる珂碩上人像も立派である。

 今年は、8月16日、お面かぶりが盛大にもよおされ、九品仏が賑わいを見せる。
           文・石井真由美(綱島・店員)


九品仏駅の目の前は、浄真寺の参道です

 ◆緑の木立の多い高台、緑が丘

 
自由が丘と大岡山という二つの大きな駅に挟まれた、小さくてのんびりとした感じの駅・・・ それが緑が丘である。

 開通時は奥沢の小字に由来して「中丸山」という駅名だったが、その後昭和8年4月1日に前年の町名変更に伴って「緑ヶ丘」、昭和41年1月に「緑が丘」と改称して現在に至っている。

 緑が丘≠ニいう町名は、緑の木立の多い高台″という土地柄に由来している。現在は、町を見回しても特別に緑が目につくということはないが、東工大のキャンパスや付近住民の散歩コースである呑川緑道が昔を忍ばせる。



「緑が丘」というのに緑が無い駅前

 また、その昔この辺一帯は世田谷城主吉良氏の支配下にあって衾村≠ニ言われていた当時の名残が、3百年の歴史を持つ貴重な文化財、栗山重治家の「長屋門」である。その後、海軍の高級将校が多く居住していたことから「海軍村」と呼ばれることもあったと言う。

 進歩的なムードの中に、歴史的な雰囲気と緑″というイメージを共有させている緑が丘。小さいながらまとまりのある町の印象を受けた。
                    文・中本英美(白楽・学生)



五説の由来をもつ、北千束


 
北千束には、こんな歴史が隠されていたのです。岸田クリーニング店の岸田正光さんと千束八幡神社の宮司さんのお話です。

 昔、源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、安房に走り、再挙して鎌倉に向かう途中、洗足池に野陣を張り、池に写る月を見ていると、野鳥が走って来ます。捕えてみると、薄青色に白い斑点があり、池に写る月の如し。で、その馬を『池月』と命名、頼朝の料馬としました。

 寿永3年春、木曽義仲を京都に攻める折、佐々木四郎高網にあの「池月」を、梶原源太景季に「磨墨」(するすみ)を与えました。両者はそれぞれ名馬にまたがり、宇治川で一番乗りを競ったのです。
 
 一番乗りは、もちろん池月。この伝説により昭和3年、駅名は「池月」と付けられました。ところが、宮城県陸羽東線にも同じ名があるので、昭和5年「洗足公園」と改名されました。

 この洗足公園、元は「千束池」。日蓮上人が身延から池上に来向の途中、池畔に小憩しそばの松に架裟を懸け(「架裟懸けの松」は今もあります)その足を洗われたところから、足を洗う池「洗足池」と改められたと伝えられています。 が、またまた、駅名が変わります。この沿線に戸越公園駅ができ、公園と名のつく駅が二つもあってはと、鉄道開設当時の洗足公園への散策客を運ぶという目的が、通勤通学客の増加で、重要でなくなったため昭和11年、その地名を取り、「北千束駅」となり、今に至っています。
  では「千束」の意味ですが、これには多くの言い伝えがあります。
 1、千僧供料の寺領の免田で千束の稲が貢租から免ぜられたから。 2、縄文時代から集落があり、その酋長の名が「センゾック」これが転化した。
 3
、このあたりは稲作農耕に大変良い条件に恵まれ、その収穫の稲千束を租と  して貢納したから。
 4、この他の池上氏が千束八幡神社を造り、初穂を千束、社前に納めたから。
 と、いうことだそうです。
 駅名は3度も変わりましたが、北千束駅前の橋梁には、今でも池月架道橋と名が書かれ、最初
の駅名の名残になっています。
           文・矢敷和子(綱島・主婦)



歴史を秘める北千束駅周辺



源氏の旗がたなびく、旗の台

池上線と大井町線の交差駅が、旗の台である。
  だが、昭和20年の地図を見ると、ここには駅はない。池上線に旗ケ岡という駅があり、人々は、大井町線の荏麻町との間を、5分ほど歩いて乗り換えたという。乗客の便宜をはかるための新しい駅を建てた時、旗ケ岡に代わって、「旗の台」という駅名がつけられた。



池上線との乗り換え駅、旗の台駅


  この「旗」という言葉の由来を、旗岡八幡神社の松本氏に話をうかがった。長 元3年(1030年)といえば、今から約9百年以上も前のことである。平忠常が下総(千葉県)で反乱を起こした。討伐の命を受けた源 頼信は、一族郎党と共に、途中、この地に立ち寄り、戦勝の主護神である八幡大神をおまつりし武運を祈った。これが、隣の荏原町駅の近くにある旗岡八幡神社のおこりである。この時、源氏の旗が、この付近一帯にたなびいていたことから、「旗ケ岡」、「旗の台」の呼び名として残ったという。
 旗の台は、源氏にゆかりの深い土地なのであろう。源氏前と名のつく、小学校や図書館もある。   
                 文・濱田順代(都立大学・会社員)


鎌倉時代の荏原氏の名前から、荏原

 大井町に向かって、右手に降りると、沿線ぞいに商店街がひらけている。ここはずいぶん、賑やかで活気にあふれている。買い物カゴをぶらさげた主婦の人たちが、友だち同士連れだって歩いている。足を進めると威勢のいい声がかえってくる。普段着とサンダルばきがよく似合う街。
 反対に左手に降りると、正面に法蓮寺というお寺が見える。坂道を少し登ると、旗岡八幡神社。
 大化の改新の頃から、現在の品川、大田、目黒、世田谷一帯は、荏原郡と呼ばれていた。鎌倉時代、荏原左衛門尉義宗という人物が、荏原郡の地頭であったという。実在の人物であるという証拠はない。
 法蓮寺は、彼が、日蓮宗に帰依した次男の朗慶を仏門に入れて開いた寺であるという。ちょうど、駅前に法蓮寺があるため、荏原町という駅名がつけられたと、現在、法蓮寺に住む第46代住職渋谷氏は語る。
 残念ながら、戦争で焼けてしまったため、古いお寺を見ることはできない。古い資料も残っていない。   
           文・濱田順代(都立大学・会社員)



庶民的で親しみやすい街の荏原駅

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