
毎年お正月に来た三河万歳
♪え~え~ ひとつとせ~ ポン ポン
鼓の音で始まる三河万歳は、愛知県の農民がコンビで農閑期の副収入に旅芸人となり、毎年歩いて回ってきました。綱島にも恒例行事のように昭和11年まで来ていました。
村の大人や子どもにとってこのリズミカルな歌と舞いを観るのは楽しみの一つ。子どもたちは二人の後を突いて回ったものです
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東) |
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大正時代のお正月の楽しみ、カルタ取り
綱島台の長福寺住職宅。中央が長福寺の先々代住職の佐々木証信さんで、小学校の先生を兼務していました。お正月には正装した教え子の女の子が恩師への新年の挨拶に来て、カルタ取りをするのが楽しみだったようです
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
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鶴見川で小学生の夏季学校、準備体操
川に入る前に準備体操。左側の男の子は上半身はだか、右側の女の子はゆかた姿
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
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小学生の夏季学校、水泳教室
撮影は旧大綱橋の上から下流の鶴見・駒岡方面に向かって。当時の川幅は子どもが飛び込んで一息で対岸に着けたほどでした。水は澄んだ清流で、飲料水として使っていました
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
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人気があった新子安海水浴場
明治末期の埋め立てで生まれた新子安海水浴場は遠浅で干潮時には沖まで潮が引き、満潮時には大人の背が立たなくなるほどでした。
東京からのお客も多く、大正時代から昭和初期まで大いに賑わいました
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
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大正10年、畑で野菜の手入れ。八雲小高等科1年児童
左の竹垣は氷川神社、右の雑木林が現在の同校正門前の道の端、八雲1丁目13番あたりです。鍬を持つ子どもの後ろの道が、学校の裏を通る氷川神社境内の脇道と思われます
提供:八雲小学校(目黒区八雲2丁目)
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この写真撮影30分後、関東大震災が……
この日は土曜日。朝からの強い風と俄か雨が10時を過ぎると止み、さわやかな秋空を思わせる天気になりました。一年一度のお祭りには絶好の日和。朝湯を浴びて晴れ着姿に着替え、大人も子どもも山車の前に勢揃い。祭り気分が最高潮に達したところで、記念写真。
その30分後のことでした。午前11時58分44秒、雷のような地鳴り、と同時に大地は激しく上下左右に揺れる。土煙りがあがり、家は倒れ、傾いた。まさかこの地震が「関東大震災」になろうとは、だれが予知したでしょうか
提供:鈴鹿政雄さん(神奈川区大口通)
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大正12年、田沢逢太さんの一家が震災見舞い
厚いボール紙の台紙に「大正12年9月 武州・川和フォトスタジオ」と年月が記され、写真館のネームが貼ってあります。
子供たちを荷車に乗せ、家族揃って震災に遭った横浜の親戚に現あざみ野2丁目から川和を通って見舞いに行く途中です
提供:飯島武靖さん(青葉区あざみ野)
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派手な服装で街を回った野澤屋の少年店員、メッセンジャーボーイ
震災後の野澤屋は、外国人デザイナーを招いて洋服のオーダーメイド、オリジナルの化粧品とランドセルなど先端的なモダンな商品・サービスで躍進しました
提供:伊勢佐木町1.2丁目商店街
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大正14年、NHKのラジオ番組に楽器演奏で出演した都田尋常小学校第2分教場(現折本小学校)の3~4年生
提供:雲井耀-さん(都筑区折本町)
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大正13年、住吉村立尋常小学校高等科卒業生
左最上段の担任の先生は田丸両太郎先生。当時の村立小学校は現在の綱島街道端の大塚商会裏にありましたが、大正12年の関東大震災で校舎が半倒壊し現在地の西口に移転しました。 提供:田辺幹夫さん(井田中ノ町)
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大正14年、、護国幼年団
浦島尋常高等小学校の児童が近所のおじさんの指導で現代版ボーイスカウト、護国幼年団を結成しました。撮影は旧神明町の氏神様の前。
提供:山室まささん(港北区新羽町)
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大正13年10月、城郷高等尋常小学校の運動会
写真に写る男性がたの服装がスーツにソフト帽、運動会が地域の一大行事であったようです。
提供:堤 雅行さん(港北区小机町)
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大正14年、綱島小学校学芸会「桃太郎」の場面
学芸会で先生方がいちばん悩むのは、児童の配役。適役の子でも親ごさんの衣装負担が気になるからだそうです。
提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
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