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文・編集:岩田 忠利     NO.14 2014.3.18 掲載

樹木
  物置で眠っていた写真裏話・・・ 横浜編

 写真集既刊3冊の贈呈に高秀横浜市長を訪ねたとき


 裏話1

 写真集『わが町の昔と今』の第1巻「港北区編」、第2巻「川崎中部編」、第3巻「神奈川区編」が約2年を要してようやく東横沿線の神奈川県側が終わりました。その報告がてら高秀秀信横浜市長を訪ねました。
 市長は差し上げた3冊を手に取り、笑顔で次々ご覧になり、「いい本ですね〜、編集にはいろんなご苦労があるのでしょうね」と、こちらの労をねぎらったりした後、「次は、どちらの本を出すのですか?」と質問。私はすかさず、「こんどは東京側の大田区編です」と返答。


 地元意識高揚に役立つこの本、旧港北区の「3区編」を

 市長が即座に「大田区へ飛ぶ前に旧港北区の3区をまとめて1冊に編集して出していただけませんか・・・」。こちらが全く予期しない難題を持ちかけてこられました。
 即答に窮していると市長が続けざまに発言。「旧港北の3区、都筑区と青葉区、それと緑区は、区民の皆さんの市民意識が“横浜都民”なのです。横浜市民なのに心は「都民」なのですね。この本には昔の風景写真などがたくさん載っていて、地元を知らない市民に地元の変遷を教えるのには絶好の本です。市民の地元意識高揚に役立ちます。ぜひ、3区をまとめた本を編集してくれませんか」と結びました。
 市長室の奥の席に座る中山秘書課長を手招きして呼び、市長は「都筑・青葉・緑の担当課長に電話して岩田さんを紹介しなさい。伺った時には協力するよう、説明しなさい」と指示したのでした。

 困難を乗り越えてこそ、進化する

 編集室に帰り、編集会議。旧港北区の都筑区・青葉区・緑区は東横沿線地域外であり、取材者3人が土地不案内のうえに、『とうよこ沿線』の知名度が低く、取材は難儀するだろうとの意見でした。 しかし、その困難を乗り越えない限り、『とうよこ沿線』は進化しない。横浜市長からの指示に各区がどの程度協力してくれるかは未知数・・・取り組んでみないと分からない。
 結局、この際、3人がT区ずつを担当して昔の写真探しを活動することに。その前にまず、私が都筑・青葉・緑の各区役所を訪ねて、取材開始の挨拶回り・・・。そして、その後の私の担当は、都筑区内の家々を回って写真集めです。



          都筑区行政・商業の中心地の今昔



昭和39年10月8日、茅ヶ崎町「境田橋」周辺



     写真上の道路は拡幅、中山〜北山田線。「境田橋」を望む同じ場所の現在

写真上の景観とは、まったく別世界のようです。後方はセンター北駅方面。手前左手に都筑区総合庁舎があり、この幹線道路は別名が「区役所通り」。手前右手が地下鉄ブルーライン「センター南駅」
  2013.8.9
 撮影:石川佐智子さん(日吉)


 裏話2


 
 「3区の写真を1冊の写真集に」が、都筑区だけで1冊に

 上の風景のように港北ニュータウンは、片側3車線のハイウエー並み道路をビュンビュン飛ばす車、そこから一歩横道に入ると瀟洒な住宅とモダンな高層マンションが建ち並ぶ人工的な街です。この町並みを造るには先祖代々の家屋敷や田畑をブルドーザーで切り崩し、昔の面影を微塵も残さないほど景観は変わりました。
 その変貌ぶりは、土地っ子にとってふるさとを失った喪失感につながり、言いようのない淋しいものでした。そんな故郷への郷愁がある土地っ子のもとを私は訪ねました。そして、旧家を回って「昔の写真があったら拝見させてください。1冊の写真集にしますから・・・」。

 皆さんはその発行に期待して喜びました。人それぞれが町内の寄り合いや隣近所の人にその旨を話し、昔の写真集めに協力くださいました。最初は徐々に貴重な写真が集まりだし、ついに質量ともに私の予想をはるかに超えるセピア色の写真が私のもとに届きました。

 当初の「3区合わせて1冊発行」の予定が都筑区だけで1冊の写真枚数に達し、「第4巻都筑区編」が世に出ました。この写真集は、都筑区全域を取り上げた初の書籍だったそうです。


   裏話3


 苦戦した青葉区担当のM・Kさん

 青葉区地域は田園都市線がほぼ真ん中を東西に横断し、東横線とは交差せず、並行に走っています。わが『とうよこ沿線』とは馴染みがなく、知っている人が少ない。
 そんな青葉区を担当したのが、車を持たないM・Kさん。 『とうよこ沿線』の創刊当時から編集委員として活躍してきた彼です。毎日まじめに青葉区へ通いました。当時はまだ地下鉄グリーンライン(開通2008年3月30日)が開通していない。東横線綱島駅で下車してバスに乗り換え、青葉区内へ行ったのでした。来る日も来る日も、写真の収穫が一枚も無く、編集室に帰って来ては、ションボリしていました。その落胆ぶりは余りにも不憫で、私が代わることができるなら代わってあげたいほどでした。



 1カ月ぶりに見つかった昔の写真

 でも私は、都筑区担当。都筑区内を古写真探しに連日奔走しています。 そんなションボリするM・Kさんの日々が丸1カ月になろうという或る日、久しぶりに笑顔で私にこう話すのでした。
 「編集長、やっと写真が見つかりそうです。一緒に鉄町まで行ってくれませんか?」
 「蔵の中から探しておく」と約束した鉄町の旧家・村田家を、さっそく二人で訪ねました。と、主人がニコニコしながら奥から厚紙に貼った大判の写真を大事そうに抱えて現れました。そのときのM・Kさんの今にも泣き出しそうな表情が今でも頭に浮かびます。
 以下の2点は、そのときの写真の一部です。


 大正10年、鉄の集落で初の縄ない機実習

 右手には縄の吸い込み口に入れる縄を木槌で叩いて柔らかくする人。足は機械を漕ぎ、手にワラを持ち、機械に差し込んで縄を作る人……。男も女も、お年寄りも若者も、まちまちの服装でそれぞれの動作。現場の雰囲気が伝わってくるような臨場感がある写真です。
 最後列の左端が、この家の当主・村田鷹輔さん




 昭和4年、時の大臣を村中総出でお出迎え

 村中大騒ぎ。村長さんからお巡りさん、校長先生に引率された小学校児童まで村人総出の出迎えです。その目的は鉄の村田鷹輔さん(村田 武さんの祖父)の病気見舞い。
 写真中央で杖を持つ小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎元総理の祖父)が出迎えの村人に挨拶する場面

★この写真掲載『わが町の昔と今』第5巻は当時現役だった小泉純一郎総理の横須賀の実家へ本誌読者から郵送されました。


 思い出多い石本先生からいただいた写真



 昭和42年5月作詞家・石本美由起先生(ひばりの右)宅の新築祝い
                   提供:石本美由起さん(神奈川区松ヶ丘)

 石本先生の右隣に古賀メロディーで有名な作曲家・古賀政男。その後ろに横向きの元日本作曲家協会会長歴任の服部良一。右端は美空ひばりの母・加藤喜美子















  裏話4


 日本人の心に浸透するヒット曲の数々

 石本先生は横浜駅西口からほど近い松ヶ丘の高台に住み、こだまする横浜港のドラの音をこよなく愛し、ひばりの持ち歌「悲しい酒」「港町十三番地」「哀愁波止場」「ひばりのマドロスさん」などを作詞。また、島倉千代子の「東京の人よさようなら」「逢いたいなァあの人に」、こまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」「渡り鳥いつ帰る」「浅草姉妹」。レコード大賞歌の「矢切の渡し」「長良川艶歌」、戦後敗戦の痛手で沈んでいた心に勇気と希望の灯をともしてくれた「憧れのハワイ航路」「長崎のザボン売り」「柿の木坂の家」など挙げたら枚挙に暇がない。

本誌に再三登場、2晩で15件の梯子酒にも

 石本先生には本誌『とうよこ沿線』の連載「お宅訪問」、「ちょっといっぱい途中下車」などにお忙しい中、時間を割いてご登場いただきました。とくに「ちょっといっぱい」では取材先は事前に当スタッフが交渉し用意した元住吉西口の飲食店。それを二晩で石本先生と私が15軒を次々飲み歩く、いわゆる“梯子酒”をしたのでした。

「悲しい酒」の舞台は近所の居酒屋

 
そのとき、私が「先生の歌詞の“舞台”って現実にある場所ですか、それとも架空のものですか?」と質問。先生「すべて現実の舞台です。机に向って頭では書けません」。先生いわく「『悲しい酒』は、横浜駅西口から松ヶ丘のわが家へ向かう途中によく立ち寄る“居酒屋”があり、その店で働く東北地方から出てきた女性から身の上話を聞いて歌をつくったのですよ」。
 
 日本作詞家協会理事長、日本音楽著作権協会理事長などを歴任。平成21年5月27日歿、享年85歳でした。

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