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大正時代の玉川電鉄「二子玉川園駅」
提供:菱沼洋子さん(玉川2丁目)
左の建物が出改札の駅舎。その前の線路の先端に車止めがあり、大正時代には二子玉川園駅が終点であったことを示しています。
玉川電鉄は明治40年(1907)に渋谷〜二子玉川園(現二子玉川)が開通しました。これが世田谷区内を最初に走った電車で、沿線住民の足の役割を果たし「玉電」の愛称で親しまれてきました。大正14年に二子橋が完成、その橋の上に玉電を走らせ、昭和2年に溝口まで延伸されました。そのため、二子玉川に新駅が開設され、写真の駅は廃止されました。
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写真左の駅があった所、昭和62年9月
駅舎の跡地は新玉川酒店、線路とホームは駅前バスターミナルに。
撮影:岩田忠利
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大正期、木造一両の玉電に子どもを抱き抱えて乗せる若い駅員
提供:石田庄一郎さん(玉川3丁目)
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大正時代、玉川電鉄乗務員たち
提供:石田庄一郎さん(玉川3丁目)
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昭和18年当時の慈蔵屋本店。酒屋の前は筏師が泊まる宿屋
創業明治22年。街道に面した広い間口、銅ぶきの屋根、2本の大ケヤキ、左店先のお地蔵さんと汲み上げポンプの井戸、いかにも老舗らしい雰囲気を醸し出しています。店先の道は今でも「筏道(いかだみち)」と呼ばれています。
提供:大塚勝利さん(玉川3丁目)
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筏流し、筏師、筏道
現代のように陸上輸送が発達していない江戸や明治の頃までは、木材・炭・年貢米などの輸送はもっぱら多摩川を利用した水路輸送でした。
なかでも青梅などの奥多摩で切り出した長尺物の材木は、筏に積み、「筏師(いかだし)」と呼ばれる人が筏に乗って操り、多摩川の下流に向け4〜5日かけて河口の羽田の集積問屋まで運搬します。この一連の作業を「筏流し」といい、その先は集積問屋が船で深川の材木問屋まで輸送します。
江戸の人口増や度重なる大火で木材需要が高まるにつれ、“青梅木材”を運ぶ多摩川の筏師の数も増えていきました。
羽田の集積問屋まで筏を流した筏師たちは、多摩川沿いの曲がりくねった細い道を上流に向けて歩いて帰ります。この道筋を「筏道」といい、現在の大田区と世田谷区内の“多摩堤通り”をその原形といわれています。
奥多摩までの帰路の途中、筏師が泊まる宿を「筏宿」と呼び、写真左の慈蔵屋は昔、宿屋で泊り客の多くが筏師だったことから、そう呼ばれ、店前の道は昔、多摩川河原と田んぼの境目で、今でも「筏道」の地名がついています。
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昭和27年、左が二子玉川小学校。右上は246号線
右上の森は瀬田1〜2丁目。その下を右へ延びる246号線を走る車は数台。二子玉川小学校前に砧線の線路も見えます。
提供:新江弥一郎さん(玉川3丁目)
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写真左と同方向、昭和62年9月
高橋医院屋上からでも遠望できません。
撮影:岩田忠利
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昭和44年5月、瀬田交差点から国道246号と玉電軌道を望む
右が246号線、左は玉電軌道。その間の中央が瀬田派出所、その手前の三角地が玉電「瀬田駅」。
この写真は、62年間親しまれてきた玉電が砧線ととも昭和44年5月10日全線廃止になる直前のものです。
提供:大塚勝利さん(玉川3丁目)
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写真左と同方向、現在(2013.4.18)
中央に見える交番の位置は変わらず。路面電車の玉電が廃止され、246号線は溝口まで立体交差道路に。
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和44年5月瀬田駅手前で渋谷行と二子玉川園行の玉電がすれ違う
62年間走り続けた玉電ともこの光景が見納め、翌日全線廃止になりました。
提供:大塚咲子さん(玉川3丁目)
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写真左と同方向、昭和62年9月
246号線の裏道になり、かえって安心して通れる落ち着いた街並みになりました。
撮影:岩田忠利
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昭和44年、玉川3丁目にある砧線吉沢踏切
提供:大塚勝利さん(玉川3丁目)
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昭和43年、砧線「中耕地駅」
右の白い建物は二子玉川郵便局。
提供:大塚勝利さん(玉川3丁目)
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昭和27年、読売飛行場格納庫前
現在地はコヤマドライビングスクール(自動車学校)です。
提供:新江弥一郎さん(玉川3丁目)
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昭和56年(1981)7月、二子玉川園駅
撮影」「とうよこ沿線」編集室
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昭和56年、駅前の二子玉川園への案内
撮影」「とうよこ沿線」編集室
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