そもそも「カワサキ」という地名は全国に80か所もあるそうですが、どこからきたのだろうか。
それには2つの説がる。一つは人名説で、「川崎」が最初に文献に登場してくるのが11世紀末から12世紀初めにかけて。秩父十郎武綱の子、基家がこの地に移って勢力を伸ばし、〝河崎冠者″などと呼ばれたのが最初だという説。
次に地形説。川崎市の「川崎」は地形からついた地名で、「川」は多摩川を、「崎」はデルタ(三角州)を指している。「川前=川に面した場所」という意味であり、「前=サキ」という古い表記がやがて「川崎」となっていったもの。
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近年カワサキといえば、すくに工場地帯を連想する。しかし、この地域は主に市南部、本市といわれる川崎区内だ。
それに対し市中部、とくにその多摩川沿いは、江戸時代からの往還道・中原街道沿いの集落を中心とした農業地帯だった。また多摩川沿岸では川の恵みを生かして生活する人も多かった地域だ。
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山王日枝神社の鳥居の前に住む古老、大山政治さん(80)大正・昭和初期の生業について語る。
「東京・川崎・横浜の町場に近いこの辺は、どこよりも多摩川の恩恵が大きく、農業との兼業でいろんな仕事で生活していた所だった。
″ジャリリポリ″という建設資材としての砂利を採集する者、投網などで魚を獲る漁業、獲った魚を食べさせる料理屋などの飲食業。
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農業といってもここは砂地を利用した桃栽培が盛んな所だった。で、この「丸子の桃」は〝多摩川モモの原産地″で有名だった。大正初期から昭和7年くらいまで農家十数軒が「上丸子果実業組合」という桃の栽培組合を組織して東京の市場に出荷していたんだよ」。
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ご高齢なのに記憶力抜群の上記・大山政治翁、その頃が恋しくなったのか、歌を口ずさみ出した。訊けば「新丸子節」。往時の新丸子の情景が目に浮かぶような歌詞、それに調子のいいメロディー。かの有名な民謡の大家、町田嘉章の作曲というから、うなずける。
「新丸子節」…作詞:中内蝶二 作曲:町田嘉章 振付:若柳吉三郎
♪桃の紅(くれない) 菜種の黄色
唄ものどかな 筏をのせて
間(あい)を流るる アノ多摩川の水
タッタッタ 多摩川新丸子
♪対(つい)の浴衣で 河原の涼み
丸子風呂から 出て来た肌に
吹く夕風 アノそよそよと
タッタッタ 多摩川新丸子
それにしても半世紀以上も昔、当時はド田舎であった新丸子のような一町内がどうして当代一流の作曲家らに新曲制作を依頼できたのだろうか。
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この疑問に、昨年故人となられた小杉御殿町の小林英男さんが生前答えてくれていた。
「粒々辛苦して東京・京橋の〝アイスキャンデー三河屋″の社長となった大竹幾次郎という人は、新丸子に従業員の福利施設をつくり、のちにこれを料亭「丸子園」とした。ここは百畳敷きの宴会場やヘチマ風呂があって芸者は20数名、規模としては大正14年完成以来、沿線最大の〝大人の遊び場″だった。
彼はこれを宣伝するために有名作曲家らに頼んで歌まで作り、自分の故郷から花火師を招んで“丸子の花火”を打ち上げた。この花火大会は、戦時中に中断はあったものの、大正14年から昭和42年まで続き、毎年夏には数十万人もの人出を呼んだ沿線最大の名物行事であった」。
この丸子園開店と宣伝が浸透し周囲には瞬く間に料亭が軒を連ね、かの「新丸子三業地」が出現したのである。それも戦後30年代後半から多摩川の汚染などの環境変化でその姿はすっかり様変わり、今は跡地が高層ビルに取って代わった。
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ミコシ作り・祝詞(のりと)・写真・結婚相談、すべてプロ並み。趣味で仕上げたミコシ50体は沿線一、いや日本一
高木栄造さん(55歳 今井甫町)
大学時代から趣味で手作りミコシを作って32年、精巧な完成品50体はすべて寄贈という奇特さ。神田明神での修行で覚えた祝詞も得意、沿線一の祭り好きなサラリーマン氏。
獅子舞の獅子頭・自宅の仏壇もご本人の傑作。
全国や東京都の写真コンテストに14回応募し7回の「最優秀賞」受賞の腕前に加え、調理師免許も。さらに今まで若い人たち54組を仲人、そんな世話好きな一面もある。
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自作のミコシの前で高木さん
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私立のスイミングクラブとして日本で最初の設立。妊産婦のためのマタニティコースを開設したのも日本で最初
多摩川スイミングクラブ
(上丸子山王町。昭和41年12月開設)
当クラブより早い設立は国立の代々木スイミングクラブと霞が丘スイミングクラブだが、民間の私立としては最初。
社長の伊藤義子さんが妊婦のお産時間の短縮・運動不足の解消などの目的でマタニティコースを開設したのも52年9月で日本初。
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多摩川スイミングクラブではきょうも若いお母さんたちが、胎児とともに泳ぐ |
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花のパンジー栽培は日本一
小田中のパンジー(三色すみれ)
川崎市内でパンジー栽培が最も盛んなのは「小田中花弁組合」。
当組合を中心とした川崎市のパンジー栽培とその出荷高は、神奈川県内最高量を誇り、「神奈川県名産百選」の指定を受けている。神奈川県のパンジー出荷高は全国一。よって、小田中のそれが、日本一ということだ。
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パンジー 撮影:石川佐智子さん(日吉) |
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小学校5年当時、多摩川で最も大物を釣り上げた沿線最年少者だった
山岸敦也さん(19歳 新丸子町)
多摩川の丸子橋近くで昭和55年10月19日、体長55センチの鯉を道糸4号・ハリス4号・針15号を使ってさつまいもの餌でみごと釣り上げた。
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体長55センチ、鯉の魚拓 |
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釣り針が羽根に刺さりもがくカラスを助け、その野生のカラスが毎日5カ月飛んで来ていた
谷口勝直さん(68歳。小杉陣屋町)
傷ついたカラスを助けた優しい心の持ち主とその恩を忘れない律儀なカラスとの交際5カ月、そんな心温まる体験者は、おそらく沿線唯一人だろう。
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谷口さんの姿を見かけると飛んでくるカラス
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沿線広しと言えども唯一の渡し船。その船頭さんは、この人しかいない
榎本幹雄さん(61歳伊。上丸子八幡町)
場所は丸子橋の下。本業の貸ボート屋さんのかたわら、ほんのサービスのつもりで昨年3月渡し船を復活させたら大好評! 手のひらサイズの船旅、思い出づくりにいかが? 大人100円、子供50円。
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渡し船を復活させた榎本さん |
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多摩川で笹を利用した鯉の卵床づくりに励む唯-の人
原 重治さん(農業。65歳。宮内)
どこも護岸整備され、鯉の産卵場所が少なくなった。多摩川の宮内付近、その浅瀬に卵床を置く。まずメスが粘着性の卵を笹の葉に産みつける。続いてオスがシラコをかける。水面にしぶきが上がるのはこのとき。
また宮内付近の河川敷にはキジがいて、餌をあげている唯一の人でもある。
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多摩川で笹を利用した鯉の“卵床づくり”に励む、沿線唯一の人、原さん |
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食品店の店先で丹精込めた作品の数々を展示する常設コーナーを持つ人。沿線唯一人の“町の芸術家”
鈴木栄次さん(68歳。上丸子天神町)
コトブキストアーという生鮮食料品店の一角に木彫りと書画がいつも展示されている。店の向かいが仕事場で今日もせっせと木彫りに励む。
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自作の木彫り作品の前で鈴木さん |
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取材・文:江川 久/取材・文:岩田忠利
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