かつての共産圏のヨーロッパ、つまり東ヨーロッパの研究をはじめてからもう10年以上になるでしょうか。
高校3年の時、進路を大学進学に決めた私は何について勉強するか悩んでいました。他の人があまりやらない分野を勉強してみようと、東海大学文学部に東ヨーロッパの文化について学べるコースがあることを知り、受験しました。あのとき、まさか自分がこんなにも東ヨーロッパに“ハマル”とは予想もしてませんでした。
東ヨーロッパとは
私は大学で東ヨーロッパの歴史を主に勉強していました。
東ヨーロッパというのは、ごく大ざっぱに言ってドイツ(西ドイツ)とソ連の間にあって、第2次世界大戦後にソ連の支配下に置かれた国々、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビア、アルバニア、東ドイツを指します。
東欧という地域は様々な宗教、文化、言語から成り立っている非常に複雑な地域であり、西ヨーロッパのような文化的、政治的まとまりに乏しい地域です。その反面、西ヨーロッパにはない文化、歴史の多様さが東欧という地域を勉強する上での魅力となります。
私が主に勉強したチェコスロヴァキアという国は、人口1500万人の小さな国で、周りの殆どが自国よりも強大な民族に囲まれていました。しかし、チェコ人、スロバキア人はそのなかで、ドイツやポーランド等の強力な文化に同化されることなく、自らの文化を保持、発展させてきました。
私が東ヨーロッパ(主にチェコ)に惹かれたのは、そこに住むその民族の逞しさなのです。
大学へUターン
大学卒業後は、ある物流関係の会社に就職しました。普通なら、ここで大学時代の学問とは縁が切れるはずですが、私の場合は、まだ勉学を続けたいという気持ちが残っていたのです。
そこで、かつての指導教授だったロスティンスキー教授を訪ね、もう一度東ヨーロッパの学問を始めたいことを告げ、将来のことを相談しました。教授は私に留学を勧めてくれ、チェコのマサリク大学に知人がいるので、そのルートを使えば留学が可能ということに。こうして思いがけなく、大学で勉強をした東ヨーロッパの国、チェコ共和国に留学することになったわけです。
チェコという国
テニスに興味のある方ならイワン・レンドルやナブナチロバーの名前をご存じでしょう。また、年輩の方は往年のマラソン選手のザトペックや東京オリンピックの女子体操で活躍したチャスラフスカを思い出すかも。
チェコ共和国は、多くの有名なスポーツ選手を生み出した国です。しかし多くの方にとって、この国はなじみの薄い国でしょう。以前は共産主義の大国ソ連支配のもと、鉄のカーテンによって覆われた未知の国でしたから。
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チェコ留学中の寮で留学生の友人と。中央が筆者
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1995年(平成7年)9月から翌年6月までの1年足らずの間、私はチェコ共和国第2の都市ブルノにあるマサリク大学に留学しました。かつての社会主義の国ですが、入国審査はパスポートチェックだけで、ごく簡単。手荷物を調べられた記憶はありません。
その留学中は様々なことがありました。チェコ国内でインフルエンザが流行、私も罹ってしまいました。すると床に臥す私をイエメン人留学生が訪ねて来て、薬をくれるなどとても親切で感動しました。クリスマスの留学生パーティーでも世界各国の留学生と知り合いになり、とても楽しいものでした。
チェコに来る日本人留学生はバイオリンなどの弦楽器のレッスンに来る人くらいで、多くはいません。
ブルノの街は人口50万ほどの歴史的な建物が数多く残っているチェコ東部の中心都市。ここの名所は、遺伝学で有名なメンデルが活動していた修道院とシュピルベルク城という城塞。飲食物はハムやソーセージが絶品、ドイツビールと遜色ないチェコのビールも実に旨いものです。
チェコは治安が旧東欧圏の中では良い方ですので、旅行をするには特に心配はありません。バロック建築が美しい百塔の街、プラハをはじめヨーロッパでは有名な温泉町カルロヴィなど、チェコは見所がたくさんある美しい国。共産党の崩壊や、日本とチェコとの査証免除協定締結など、以前と比べて遥かに行きやすい環境になりました。
機会がありましたらぜひ旅のコースの一つに加えてみてください。
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笠井 幹夫
川崎市生まれの30歳、独身。片道2時間の電事通学で東海大学大学院博士課程在籍。
趣味は読書と旅行。歴史好きで城下町を訪ねるのが好き。現在、学問上の必要に迫られてドイツ語の学習中。独検3級を取得、2級をめざす。
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