あの時の自分
編集長 岩田忠利
死線をさまよっていた10日間のことは、自分にはわからなかった。文字どおり必死≠セったのだろう。もの心ついてから、あの時の時の流れだけが私の記憶にはない。
看護婦や家族の姿、そして見舞客がおぼろげに視界に入ってから数日経つと、私は自分が明日をも知れぬ重い病気をしたことを知らされた。と同時にベッドに横たわる私の体が1ミリも動かないことに気づいた。
個室である私の病室だけが、昼間でも厚いカーテンが下ろされ、天井だけをじっとながめる日々……。できることは、見ること、聞くこと、話すことだけ。それも襲いくる激痛でままならない。注射で痛みがやわらぐと、今度は薄暗い森林に踏み込むような不安が……。病院の真夜中はつらい。恐しいほど静か。
私の枕元の壁ひとつ隔てたむこう側にl台の赤電話があった。夜中になると、受話器を手にしてすすり泣く人、号泣の人……。近親者の死″を告げる電話のやりとりが、連日のように手に取るように耳に入るのだった。
「もしかしたら、私の死も、あの受話器で家族が告げる」、と思うと不安がつのる。私は自分の人生を毎晩考えた。「生きるとは‥…」「死とは……」。自問自答を繰り返すなかで、私は生きる覚悟≠決めた。
あの時から9年、ベッドの中での思いが、やっといま雑誌『とうよこ沿線』という形になったのである。
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編集長がなぜ上の記事を載せたか?
岩田忠利
この記事の異常さは、書かれた本人が編集長でありながら敢えてそれを掲載したことにある。
その理由はじつは、こういう体験に裏打ちされている。
本誌は創刊号から3号まで会員の手渡しで読みたい人に無料で差し上げてきた。ところが、配布段階で、
「この世知辛い世の中にこれほど立派な雑誌を、なぜ他人にタダあげちゃうの?」と疑問を抱く人が大半。はっきり言う人はこんな言葉が返ってくる。
「おもしろそうだから読みたいけど……あとがコワイ。この本を発行している責任者の人って、選挙に出る人? それとも新興宗教でもやってる人?」
新人会員の女性が自由が丘の某銀行へ50冊を車で無料配布に行ったときのこと。知り合いのおエライさんからそう言われ受け取ってくれなかった、と憮然とした表情で編集室に帰って来た。これと同じ休験を何度もやってきた鈴木好子は、この話を聞くや、
「今度の号でわたしが書くわ。どんな男がどんな気持ちでこの本をつくっているか……この点をみんなに理解してもらわなければ、喜んで読んでもらえないわ」
という次第で彼女が書いた。
ともかく大都会で一冊の雑誌を出すということは、″説得行為の連続=Bそれ以外のなにものでもないと思う。
取材、原稿依頼、配本、そして広告募集にしても……。
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