編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
 NO.343 2014.11.02  掲載 

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樹木

『とうよこ沿線』に取り憑かれた男


   この男の知られざる側面


文 鈴木好子
 私の娘ムコである“岩田忠利”なる男、その人間の側面を書き残しておく気になった。この男のやることは、いつも周囲を巻き込み、行動を起こさせる。動機はつねに善意から発しているので、迷惑な男だと思うけれどつねに従わざるを得ない。

 今回も『とうよこ沿線』なる“雑誌発行病”に取り憑かれている。絶えず何かに夢中になり、走り続ける男。私もいつの間にか、その毒気に当てられ、老骨にムチ打って走らされているのです。
  きっと読者の皆さんの中にも私と同じ心境でいる方がいらっしゃることと、この男の知られざる側面をあばき、ご理解していただきたい、そんな気持ちからペンを執ることにいたします。
                        
                       ◆

 
岩田は、なにしろ好奇心のかたまり。どんなことにでも興味を示す。そのあげく、やってみないと気が済まない。知らないと大損すると思っているようだ。

 大学時代はこの症状がまったく顕著で、周囲の者も辟易(へきえき)していた。学友たちが言うので間違いないことだが、そのひとつに日本で行なわれたアジア大会での話。

 彼はパキスタン選手団の通訳を買って出たが、生来の人間好きに加え、一種独特の性格が団長に気に入られた。
 贈物のアストラカン帽と選手用バッチを身につけた彼は、バタくさいマスクですっかりパキスタン選手になりすましてしまった。選手村の出入りはもちろん、国立競技場はフリーパス、入場者にサインを求められれば「コロンブス」と書く始末。
 乗り物も食事もタダどころか、電車に乗ればシルバーシートの老人が「外人さん、どうぞ…」。彼は苦笑いで「ノーサンキュー」。


  のりにのってある日、この服装で大学のキャンパスに出た。教室では悪友達が大よろこび、すぐ悪い相談がまとまった。やがて始業、教授が入ってくる。前方の教壇脇に直立不動で立っている変な男に教授は驚いたらしい。すかさず悪友の一人が立って、

  「紹介します。このパキスタン選手が日本の大学の授業参観をしたいそうです……」。
  教授は丁重に黙礼、「まず出席を取ります」と名簿を取り上げる。これには彼も参った。

  順番に「6番イワタ…」。クラス全員がかたずをのむなか、「ハイッ…」。
 例の大声で答えてしまった。教室中爆笑の渦……。教授はカンカンで、
 「パキスタン人のお前には単位をあげないッ」

 以来、ニックネームはパキスタン、通称パキ=B20代から40代の今日まで親しい間柄ではこれで通用している。

 これ以外にもこの男には数々のエピソードがあって、話題にはこと欠かない。

 とくに落ちる≠アとにご縁があるようだ。尾瀬の山小屋で管理人のバイトをしていた頃、3階から落ちて大怪我をしたり、社会人1年生の頃、上司のお宅で酔払って制止するのも聞かず欄干から庭に出たと思ったら、急転直下。そこは2階であって救急車のお世話になったり……。


 ともかく、この男と私たちが生活を共にする羽目になりましたが、学生時代の親友たちに言わせると、

 「世帯を持って、あの男は野性のオオカミが子ヒツジになった」

 と評します。でも、どうしてどうして……。今でも私たちは彼のやることにヒヤヒヤのしっぱなし。

 だって、そうでしょう。だれが今どきこの世知辛いご時世にこんなことを考え、実行するでしょう? 
毎晩毎晩徹夜でつくりあげた
100ページからの雑誌、それを5万冊もタダで差し上げるようなことを……。


                       ◆

 
私は今、この男の心意気とその動機を最もよく知っている家族の一員として、ぜひ皆さまに知っていただきたいことがります。

 
9年前の8月、この男には今までの人生観を根底からくつがえす出来事″があったのです。それは死線をさまよう大病をしたこと。

  本人の闘病の苦しみもさることながら、家族にとっては青天のへきれき。この男は病気をするのもダイナミックで、ちょっと人には真似ることができないようなのにかかります。
  

 意識不明で、目をシロクロ、口をポカーン、まさに酸素欠乏の池の鯉のよう。高熱にうなされる10日間は医師の診断どおり今日までか、明日までもつかと、地獄の責め苦だった。同じ病名の入院患者3人のうち、2人はつぎつぎと他界、今度こそは、わが家の息子の番か――。

 なにしろ、心臓の強い男でして、当時の職場の人たちが団体葬の準備までしてくれているというのに、それは意識不明になって10日の深夜のこと……。
 主治医・看護婦・家族が見守るなか、目をパッチリと開け、本人は風呂からあがったような顔で「みんな揃ってどうしたの?」ですって……。

 それからの闘病生活がまた大変。襲いくる合併症その苦しみともがき、付き添う者には耐えられない毎日でした。


 この大病を克服してからの彼は、「一度失った命、拾いものの命、この貴重な生命をなんとか社会に役立てなくては……」と一念発起。本業はさておき自分を本当に生かす道は何か、ただそれだけを真剣に模索していた。

 こうして行き着いた道が、この『とうよこ沿線』の発行。例のごとく、信念プラス好奇心と感受性、そして行動力のかれ、アッというまに走り出してしまったのです。これから先、どこまで彼が、自分の手で敷いたレールの上を脇目をふらずに走り続けることだろうか。

 わたくしも、彼を支持してくださる心ある協力者の皆さまと一緒に、猪突猛進あのイノシシみたいな男、そのあとを息せき切って走り続けてみたい、そんな一心でがんばっている今日この頃でございます

                               イラスト:板山美枝子(綱島)



     
あの時の自分


                   編集長 岩田忠利


 死線をさまよっていた10日間のことは、自分にはわからなかった。文字どおり必死≠セったのだろう。もの心ついてから、あの時の時の流れだけが私の記憶にはない。
 看護婦や家族の姿、そして見舞客がおぼろげに視界に入ってから数日経つと、私は自分が明日をも知れぬ重い病気をしたことを知らされた。と同時にベッドに横たわる私の体が1ミリも動かないことに気づいた。

  個室である私の病室だけが、昼間でも厚いカーテンが下ろされ、天井だけをじっとながめる日々……。できることは、見ること、聞くこと、話すことだけ。それも襲いくる激痛でままならない。注射で痛みがやわらぐと、今度は薄暗い森林に踏み込むような不安が……。病院の真夜中はつらい。恐しいほど静か。

 私の枕元の壁ひとつ隔てたむこう側にl台の赤電話があった。夜中になると、受話器を手にしてすすり泣く人、号泣の人……。近親者の死″を告げる電話のやりとりが、連日のように手に取るように耳に入るのだった。
 「もしかしたら、私の死も、あの受話器で家族が告げる」、と思うと不安がつのる。私は自分の人生を毎晩考えた。「生きるとは‥…」「死とは……」。自問自答を繰り返すなかで、私は生きる覚悟≠決めた。

 あの時から9年、ベッドの中での思いが、やっといま雑誌『とうよこ沿線』という形になったのである。

編集長がなぜ上の記事を載せたか? 

                           岩田忠利

 この記事の異常さは、書かれた本人が編集長でありながら敢えてそれを掲載したことにある。
 その理由はじつは、こういう体験に裏打ちされている。

 本誌は創刊号から3号まで会員の手渡しで読みたい人に無料で差し上げてきた。ところが、配布段階で、
 「この世知辛い世の中にこれほど立派な雑誌を、なぜ他人にタダあげちゃうの?」と疑問を抱く人が大半。はっきり言う人はこんな言葉が返ってくる。

 「おもしろそうだから読みたいけど……あとがコワイ。この本を発行している責任者の人って、選挙に出る人? それとも新興宗教でもやってる人?」

 新人会員の女性が自由が丘の某銀行へ50冊を車で無料配布に行ったときのこと。知り合いのおエライさんからそう言われ受け取ってくれなかった、と憮然とした表情で編集室に帰って来た。これと同じ休験を何度もやってきた鈴木好子は、この話を聞くや、

 「今度の号でわたしが書くわ。どんな男がどんな気持ちでこの本をつくっているか……この点をみんなに理解してもらわなければ、喜んで読んでもらえないわ」
 という次第で彼女が書いた。

  ともかく大都会で一冊の雑誌を出すということは、″説得行為の連続=Bそれ以外のなにものでもないと思う。
 取材、原稿依頼、配本、そして広告募集にしても……。


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