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かつては、外交の拠点となった横浜。開港当時、異国からこの滝の川の畔にさまざまな人たちがやってきて、横浜と各国々の接点となっていた。
戦後、家々が建ち並ぶにつれてドブ川となってしまい、半分以上が埋められてしまったが、かつては河童が棲んでいたといわれるほど清らかな流れだった。
戦時中、このあたりも空襲に遭い、燃え盛る炎の中、人々はこの滝の川に逃げ込んだりもした。
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反町から来る流れ
横浜北部の大動脈である第3京浜道路、その保土ヶ谷インターチェンジ付近に、現在の滝の川(反町川)の上流部がある。 正確には、高速神奈川2号三ッ沢線との接続部に広がる三ッ沢公園付近から来る流れと、横浜国立大学方面から横浜新道沿いに来る流れが、神奈川区三ッ沢上町で合流している。この2本の流れは、高架下をくぐり、国道を2度3度と横切りながら、住宅地の生活排水を集める典型的なドブ川になる。 |
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合流後は、緑豊かな木々に囲まれ、川幅も広がり、やっと川らしい景観。
横浜市営地下鉄三ッ沢上町・三ッ沢下町駅沿いに、静かな住宅地や三ッ沢小学校の校庭裏などを、ゆるやかに曲がりながら人々の心を和ませている。
しかし、現在この付近は、三ッ沢せせらぎ緑道計画(仮称)の一環で、生活排水や雨水を流すための下水道を河床に埋める工事が行なわれていて、場所によっては水がまったく無く、河底にマンホールが見えたりする。
三ッ沢下町を過ぎて、松本町に入ったあたりで、国道1号(横浜新道)を横切る。それと共に、市営地下鉄も川の下を横切ることに…。新旧取りまぜて3つの流れが交差する場所、島田橋。
考えてみればこの地点には、各時代の姿が今も存在するわけである。残念なことにこの橋も含めて、観音橋からガーデン橋までの区間は、近く埋められ暗渠化される運命にある。
ガーデン橋から下流は、既に緑道となっていて、むかしの面影は僅かに残る石垣の上部と、川筋を思わせる緑道のうねり、そして、道端のアスファルトを突き破って顔を出す草花ぐらいのものであろう。
その後の流れは、東横線の高架を、反町〜東白楽駅間でくぐり、神奈川スケートリンクの横を通って、もう一方の川筋に合流するまで、再び顔を出してはくれない。
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東白楽から来る流れ
もう1本、今ではほとんど埋め立てられてしまってはいるが、家々の間をぬって滝の川はその面影を残している。
最上流部、片倉町や神大寺のあたりにはまだ畑があり、埋め立てられた滝の川はアスファルトで整地されている。
六角橋まで来ると「六角橋遊歩道」がある。樹木が植えられ、通勤・通学、買い物への裏道となり、子供たちが遊ぶ。昔は魚がいて水遊びもできたのに。
遊歩道が終わると再び路地のような道に。昔は道路ではなかったので、どの家も背中を向けている。
新横浜から東神奈川へ向かう横浜上麻生道路を一旦横切り、住宅地をぬけて東白楽駅の前まで来ると、かつての流れは駐輪場になっている。再び横浜上麻生道路を横切り、東横線をくぐるのだが、ここではじめて流れが顔を出す。両岸とも高いフェンスに挟まれながら、神奈川スケートリンクの前でもう一本の流れとぶつかり、国道1号線、国鉄東海道線をくぐる。
下流部は歴史ある神奈川宿の中心地を流れる
国鉄をくぐり、すぐ左側には慶運寺がある。横浜が開港した当時フランス領事館になった寺で、門前には「うらしま寺」とも書かれており、竜宮伝説の浦島観音像が安置されている。さらに京浜急行をくぐり、川沿いに道を進むと右手、川の向こうに浄滝寺がある。
ここはイギリス領事館になった寺だ。また、道を左に折れた所には成仏寺があり、この寺には開港当時、アメリカ人のヘボン博士らが住み、日本にさまざまな文化を持ち込んだ。
やがて川は国道15号線にぶつかる。旧東海道の神奈川宿で、横浜寄りには青木町本陣跡、江戸寄りには神奈川本陣跡がありこの辺はかつて栄えた宿場町だった。
昔の河口は国道から少しの所だったようだが、今日、更に埋め立てられて、今の河口部は横浜中央卸売市場のあたりになる。少し東側には江戸幕府がつくらせた神奈川台場跡があり、今もなお、石垣の一部が残る。
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この先が昔の河口。下は国道15号線、上は首都高速横羽線
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滝の川の河口。手前が横浜中央卸売市場になる
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